テラーノベル
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九月二日の朝が来ても、冬馬様は戻らなかった。
東の空の煙は、夜のあいだも消えなかった。朝日が、その煙を透かして、赤い、ぼやけた円盤のように昇ってきた。
庭の人は、また増えていた。
坂の下から上ってくる人々は、昨日よりも、さらに口数が少なかった。
昼前、門の脇で、篠原さんが自転車の代わりに草鞋の紐を締めていた。
「浅草へ、行ってきます」
私が頼んだことだった。
六区の外れの、どぶ板の路地。朝顔の鉢の置かれた戸口。病身で、一人では歩けない人。
「あの方は、真柴さんの、お母様です。……それに、あの方の話は、いつか、皆の前でしていただかなければならない」
篠原さんは、丸眼鏡を外して、袖で拭いた。
「わかっています。それに、奥様に頼まれなくても、たぶん、行っていました」
それから、照れたように笑って、坂を下りていった。
*
二日目の午後から、庭に、噂が流れてくるようになった。
どこそこの井戸がどうの。誰それが火をつけて回っているの。夜になれば何かが襲ってくるの。
言っている人の顔は、皆、怯えていた。けれど、自分の目で見た、という人は、一人もいなかった。
竈の脇で、ハナが、聞いてきた話を、得意げに繰り返しはじめた。
「ハナさん」
私は、握り飯を握る手を止めた。
「見ていないことは、口にしないでください。皆さんにも、そうお願いして」
ハナが、ぽかんと口を開けた。
去年の十一月、『帝都夜話』の号外が、私の名で、ありもしない手紙を載せた。読んだ人は皆、信じた。誰も、紙を確かめなかった。
噂は、紙より速い。そして、紙よりも、確かめようがない。
ハナは、しばらく黙っていた。それから、こくりとうなずいて、塩壺に手を伸ばした。
夕方、門の外で、男の声がした。
本所から逃げてきたという、年配の職人だった。煤で、顔の皺が黒く縁取られている。水を一杯飲み干すと、問われもしないのに、話しだした。
川向こうの、被服廠の跡地。広い空き地だから安全だと、大勢が家財を持って逃げこんだ。そこへ、四方から火が回った、と。
「わしは、見ておらん」
職人は、湯呑みを握りしめて、首を振った。
「見ておらんが、そこから出てきた者は、ほとんどおらんと聞いた」
それきり、口を閉じた。
私は、膝に力が入らなくなって、竈の脇の地面に座りこんだ。
父の借家は、被服廠から、遠くない。
冬馬様は、その方角へ、自転車で下りていった。
お鈴が、黙って、私の隣にしゃがんだ。小さな手で、私の背中を、何度も撫でた。
*
九月三日の昼過ぎ、篠原さんが戻ってきた。
背中に、小柄な老婆を負っていた。白髪が煤で灰色になり、洗い晒しの浴衣の裾は焦げていた。それでも、篠原さんの肩に回した腕の先で、袋に入った三味線を一棹、しっかりと握っていた。
ふささんだった。
「観音様の境内に、おられました」
篠原さんは、ふささんを芝の上に下ろすと、膝に手をついて息を整えた。
「六区のあたりは、ほとんど焼けてしまって。でも、観音様のお堂のまわりだけは、残っていたんです。大勢、逃げこんでいて」
十二階のことを訊こうとして、私は、やめた。篠原さんの顔が、それ以上は聞かないでくれと言っていた。
ふささんは、私を見上げた。
「若奥様。……ご無事で」
「ふささんこそ。どうやって、境内まで」
ふささんの目が、ふっと遠くなった。
「宗介が、背負って、連れていってくれたんでございます。一日の、日の暮れ前に。煙の中を、ずっと走って」
皺の多い手が、三味線の袋を撫でた。
「これも、あの子が持ってきてくれました。それから、用があると言って、また、行ってしまいました。……どこへ行くとも、申しませんで」
一日の、日の暮れ前。
大広間から書状を掴んで消えたあの人は、まっすぐ、浅草へ走ったのだ。燃える下町を抜けて、母親を背負いに。
そして、その足で、夜の藤棚の下へ戻ってきた。
私は、何も言えなかった。大奥様が、藤棚の下から、黙ってこちらを見ていた。
やがて大奥様は、ハナを呼んで、自分の隣に、布団をもう一枚敷かせた。
*
九月三日の夕暮れ。
私は、藤棚の下の天幕で、タキさんの唇を、濡らした手拭いで湿らせていた。
目を覚まさないまま、もう九月だった。去年の十一月から、十か月近く。
大奥様は、少し離れた布団の上で、膝の文箱に手を置いたまま、うとうとしていた。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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指先に、何かが触れた。
タキさんの指だった。
皺の深い、骨ばった指が、私の手首を、弱々しく掴んでいた。
顔を見ると、タキさんの瞼が、細く開いていた。
濁った目が、天幕の布を見上げ、それから、ゆっくりと、私の顔に下りてきた。
「タキさん」
私の声に、大奥様が、はっと顔を上げた。
「タキ」
タキさんの唇が、動いた。
けれど、声にならなかった。喉の奥で、かすれた息の音がするだけだった。何度も、何度も、唇が同じ形に動く。
何かを、言おうとしている。
「筆を」
私は、立ち上がった。
大奥様が、帯の間から、小さな矢立てを抜いて、私に差し出した。真鍮の筒に、細い筆と、墨を含ませた綿。
私は、炊き出しの握り飯を包むのに使っていた半紙を一枚取り、文箱の蓋の上に広げた。それを、タキさんの胸の上に、そっと支えた。
筆を、タキさんの指に握らせた。
指が、震えた。
筆の先が、紙の上を、よろよろと這いはじめた。
一字ずつ、長い時間がかかった。
平仮名だった。
大きさも、行も揃わない。途中で筆が止まり、タキさんの胸が、苦しそうに上下する。それでも、指は、筆を離さなかった。
大奥様が、息を詰めて、紙を見つめていた。
かれい
ふうをきった
ぶどうしゅ
最後の一字を書き終えると、筆が、指から落ちた。
私は、紙を見下ろした。
家令。封を切った。葡萄酒。
大正九年の、一月。流行性感冒で寝ついた小夜子様の枕元へ、宇佐美先生の処方した薬用葡萄酒が、毎晩運ばれた。運んでいたのは、タキさんだった。
その瓶は、医院から届いたとき、口に、赤い蝋の封がしてあった。
その封を、切ったのは。
赤い封蝋の欠片が、目の裏に浮かんだ。
タキさんが、階段の下で、握りしめていたもの。丸い輪の、半分。その内側に、細い線が二本。
あの線を、私は、どこかで見ていた。
宇佐美医院の、薬袋。表に、初号の明朝で、大きく刷られた医院の名。京橋の親方が、ルーペを覗いて言った。この宀の、左の点が、やけに立ってやがる。
輪の中の、宀。
欠片に残っていた二本の線は、宇佐美医院の印の、宇の字の頭だった。
葡萄酒は、医院で封をされ、封をされたまま、この屋敷に届いた。
そして、小夜子様の枕元へ上がる前に、家令室で、封を切られた。
「タキさん」
私は、タキさんの手を、両手で包んだ。
「あの冬は、お寒うございました、と言いましたね。藤の間のものは、早くお仕舞いなさいまし、と」
タキさんの目が、私を見ていた。
「ずっと、知っていたのですね。知っていて、誰にも、言えなかった」
タキさんの唇が、震えた。
声にはならなかった。けれど、その形は、私にも読めた。
おくさま。
大奥様が、布団の上から、膝で這ってきた。
挫いた足を引きずって、タキさんの枕元に座った。
「タキ」
大奥様の声が、かすれていた。
「あなたは、ずっと、私を疑っていたのでしょう。小夜子さんの葡萄酒に、私が、何かしたと」
タキさんは、目を閉じた。
それが、答えだった。
「……無理もありません。私は、あの子の手紙を、燃やしたのですから」
大奥様は、タキさんの手の上に、自分の白い手を重ねた。
「三年も、一人で抱えさせました。……堪忍しておくれ、タキ」
タキさんの閉じた瞼の端から、涙が、一筋流れた。
皺の溝を伝って、枕の手拭いに、吸いこまれていった。
私は、半紙を、そっと持ち上げた。
震える、平仮名の三行。
大正九年の一月、小夜子様の葡萄酒の封を、家令室で切ったのは、家令だった。
コメント
1件
ああっ…もう、ここでくるかー!って感じだわ。タキさんがやっと目を覚ましたと思ったら、あの筆談…「かれい」「ふうをきった」「ぶどうしゅ」の三行だけで、ずっと胸に秘めてた真実を伝えるシーン、震えたわ。 ずっと声が出せないまま、あの冬の真実を抱えてたんだなって思うと切なすぎる。それに、篠原さんが燃える浅草から母親背負って逃げてたって事実も、あの夜の藤棚の下に戻ってきたんだなって繋がった瞬間、鳥肌立った。 次回、家令の"宇"の字の謎がどう解決されるのか、もういてもたってもいられんわ🔥 いい仕事してるわ、草原草原さん!