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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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九月四日の朝、門の前に、古びた外套の男が立った。
外套の襟も、帽子のつばも、煤で黒ずんでいた。片方の袖が、肘のところまで焼け焦げている。両腕で、大きな風呂敷包みを抱えていた。
鬼塚警部補だった。
「……生きておられましたか、奥さん」
警部補は、門の脇の石に腰を下ろすと、風呂敷包みを膝に置いた。
「日比谷の庁舎は、一日の晩に焼けましてな。わしの部屋も、刑事部屋も、何もかも」
太い指が、結び目をほどいた。
帝大の分析書。小夜子様の日記と、擦り出し。電報の送達紙。宇佐美先生の懐にあった、鉛筆の溝のある手紙。赤い封蝋の欠片。そして、タイプ打ちの、偽の遺書。
紙の端が、どれも少しずつ、茶色く焦げていた。
「火が回る前に、これだけは抱えて出ました。ほかの書類は、知らん。わしの首が飛ぶかもしれんが、まあ、それはそれですな」
警部補は、風呂敷の端から、小さな鍵を一本、つまみ出した。
「それと、侯爵の書斎の引き出しの鍵だ。返しておきます」
それから、声を落とした。
「久遠寺将臣は、八月の末から、詐欺の件で、わしらの手の内におりましてな。地震の前の晩に、ようやく口を割った。村瀬に渡した宇佐美の遺書の封筒は、自分が預かったものではない。家令から、自分の名で出してくれと頼まれた、と」
「では」
「将臣の口だけでは、検事は動かん。だが、紙が、また一枚増えた。……ついでに言えば、宇佐美の医院の金庫は、空でしたな。あの男は、手紙を、自分の懐に入れて持ってきとった」
警部補は、黄色い歯を見せた。
「華族会館の来訪帳も、無事だそうです。会館は壁に罅が入ったが、金庫は、びくともせなんだ」
私は、封蝋の欠片を、手のひらに載せた。
ルーペを当てる。丸い輪の半分。その内側の、細い線が二本。
宀の、左の点と、横画の端。
間違いなかった。
私は、警部補に、全部話した。一日の夜、藤棚の下で腕を掴まれたこと。タキさんの、平仮名の三行。宇の字の封。
それから、もう一つ。
「大正七年の罫紙は、屋敷ではなく、日本橋の貸し倉庫へ納めるように言われたそうです。父の話では」
警部補の太い眉が、ぴくりと動いた。
「日本橋は、ほとんど焼けた。だが、蔵造りの倉庫なら、残っとるものもある」
警部補は、帽子を被り直して、立ち上がった。
「探しましょう。あの家令の足跡も、そこから辿れるかもしれん」
*
九月五日。
高階審議官の使いが、宮内省の封書を届けてきた。封筒の角が、雨に濡れて波打っていた。
大奥様が、藤棚の下で、それを読んだ。
読み終えると、黙って、私に差し出した。
申し立て人真柴宗介、昨日、宮内省仮事務所に先代侯爵の遺言状を提出。当主久遠寺冬馬、九月一日より行方知れず。本所方面にて罹災せるものと見られる。家督の扱いにつき、九月十日正午、久遠寺侯爵邸に於て、改めて親族会を開く。
紙を持つ手が、冷たくなった。
本所方面にて、罹災せるものと見られる。
あの人の名の上に、そう書いてあった。
その日の午後、分家の御当主たちが、揃ってやって来た。
赤坂の御分家は、庭に溢れた避難民を見て、露骨に顔をしかめた。麻布の御分家は、和館の崩れた屋根を見上げて、溜め息をついた。
二人は、藤棚の下の大奥様に形ばかりの見舞いを言い、それから、私のほうを向いた。
「このたびは、御愁傷様で」
赤坂の御分家が、口髭の下で言った。
「お若いのに、お気の毒なことだ。未亡人となられては、この家にも居づらかろう。御実家へお戻りになるのも、悪くない」
未亡人。
その言葉が、庭の空気の中で、妙にはっきりと響いた。
百合絵様が、立ち上がりかけた。私は、その袖を押さえた。
「夫は、生きています」
私は言った。
赤坂の御分家が、眉を上げた。
「本所へ下りて、もう四日だ。あの辺りの話は、奥方も聞いておられよう」
「聞いております。でも、見てはおりません」
私は、帯の間から、鹿革の小さな袋を出した。
「家のことは、私が決めるようにと、夫から預かっております。夫が戻るまで、この家のことは、夫の妻が預かります」
袋の口から、黄楊の実印の頭が覗いた。
麻布の御分家が、それを見て、口を閉じた。
藤棚の下で、大奥様が、扇子をぱちりと鳴らした。
「この家の嫁を、勝手に後家になさらないでいただきたい」
挫いた足を投げ出したまま、大奥様は、二人を見上げた。
「冬馬さんが本所でどうなったか、私も、誰も、まだ見ていません。見ていないものを、久遠寺の者が、口にするものではありません」
赤坂の御分家は、しばらく私を睨んでいた。それから、鼻を鳴らした。
「では、十日に。……審議官殿の前で、同じことが言えるかどうか」
*
九月六日の朝、私は、本所へ向かった。
百合絵様と、それから、麗子様が一緒だった。
麗子様は、番町の屋敷から歩いてきた。いつもの洋装ではなく、地味な木綿の着物に、男物の編み上げ靴を履いていた。
「藤堂の家は、壁に罅が入っただけ。運がよかったのよ」
麗子様は、肩にかけた布の袋から、臙脂の布張りの帳面を出した。
「小石川の、白河の小母様から。あなたに持っていてほしいって」
千鶴さんの、大正十年の当用日記だった。
「八月の頁に、塗りつぶした字があるでしょう。小母様が、あれを読めるのは、あなただけだって」
私は、日記を胸に抱いた。
千鶴さんが、最後の夏に、一行ずつ書いた帳面。あの子の字は、行の終わりが右へ逃げる。
「勘違いなさらないで。届けものを頼まれただけよ。……行きましょう。あなた一人で行かせたら、千鶴さんに、化けて出られるわ」
隅田川を渡ると、そこから先には、何もなかった。
家も、塀も、看板も。焼け落ちた瓦と、黒い炭の山が、地平の先まで続いていた。ところどころに、焼けた電柱と、蔵の壁だけが、墓標のように立っている。
空気が、熱かった。足もとの灰が、草履の裏から熱を伝えてきた。
焦げた匂いの中に、別の匂いが混じっていた。私は、それが何の匂いなのか、考えないことにした。
百合絵様が、私の手を握っていた。麗子様は、黙って、前を歩いていた。
父の借家のあった路地は、どこにも見つからなかった。
路地の入り口にあった井戸の、石の縁だけが、焼け跡の中に残っていた。婚礼の朝、長屋の戸という戸から、目と囁きがこぼれていた、あの井戸端。
私は、その石の縁に手をついて、しばらく、立ち上がれなかった。
*
午後、上野の山へ上った。
山の上は、人で埋まっていた。焼け出された人々が、木の下に、石段に、むしろを敷いて座りこんでいる。名前を呼ぶ声が、あちこちから聞こえた。
私も、呼んだ。
父の名を。それから、冬馬様の名を。
声が嗄れるまで、人の顔を一つずつ覗きこんで歩いた。百合絵様も、麗子様も、呼んだ。
どの顔も、違った。
石段の下で、小さな男の子が、空の茶碗を抱えて座っていた。母親を待っているのだと、隣の老人が言った。
私は、袂に入れてきた握り飯を一つ、その子の茶碗に載せた。大奥様が、今朝、塩を振って握ったものだった。
男の子は、握り飯と私の顔を見比べて、それから、両手で掴んでかぶりついた。
食べて、生きていろ。
あの人の声が、耳の奥で鳴った。私は、袂のもう一つを、百合絵様と麗子様と、三つに割って食べた。
山を下りる坂の途中に、焼けた電柱が一本、立っていた。
電柱には、紙が、何十枚も貼られていた。半紙、帳面の切れ端、包み紙の裏。尋ね人の紙だった。誰それを探す。どこそこにいる。無事。
麗子様が、ふと足を止めた。
「栞さん」
初めて、名前で呼ばれた。
麗子様の指が、一枚の紙を指していた。
帳面の頁を破り取った、粗末な紙だった。鉛筆の字で、こう書かれていた。
久遠寺栞 夫ハ無事 上野ニ居ル
知らない字だった。
冬馬様の字では、なかった。
コメント
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第76話、拝読しました。 焼け跡の描写が本当に生々しくて、息が詰まるような読後感でした。特に井戸の石の縁だけが残っている場面は、あの婚礼の朝の賑わいを知っている読者としては胸が締め付けられました。 そんな中でも「夫は生きています」と言い放つ栞さんの強さに、ぐっときました。そして最後の電柱の書き置き——あの字が冬馬様のものじゃないってことは、誰が書いたんだろう…。続きが気になって仕方ないです。 大奥様の「勝手に後家になさらないでいただきたい」も渋くて大好きです。