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Episode.36
空はまだ薄い藍色で、東の山の端から朝日がゆっくりと這い上がっているところだった。
湿った風が頬を撫で、草の甘さと土の冷たさが混じった匂いが鼻の奥に残る。
道端の紫陽花は満開で、重い花房が朝露をたたえてうな垂れ、葉の上で小さな水滴が宝石のように光っていた。
その奥の杉林からは、まだ朝靄が立ち上り、遠くでウグイスが一度だけ、ためらいがちに鳴いた。
三音だけを残して沈黙した。
三人は自転車を降りた。
ブレーキの金属音が静寂を裂き、タイヤが小石を踏む音がやけに大きく響く。
ルナリア家の自転車である。
アスファルトの真ん中。
そこに、彼女はっきりとした人影があった。
白いワンピースは薄手のサマーコットンで、朝露と土で茶色く汚れている。
生地は薄すぎて、朝日に透けて、肩から胸にかけてのラインがうっすらと浮かんで見えた。
金色の髪は腰を越えるほど長く、濡れて重そうに背中に張りつき、
髪の毛一本一本が朝日に当たって淡い虹色を帯び、まるで月光を溶かかった糸のように輝いている。
仰向けで倒れている。
両手は胸の上で静かに重ねられ、指は細く白く、爪は短く切り揃えられ、爪の根元にうっすらと月形の白が残っている。
首筋には、細い鎖骨の窪みがくっきりと浮かび、
鎖骨の下に、小さなホクロが一つだけあった。
ヴェルは知っている。
カズハの左鎖骨の下に、ぽつんとある、小さなホクロ。
顔は、間違いなくカズハだった。
でも、違う。
一年前、病室で最後に見たカズハは12歳だった。
大きすぎるパジャマの袖を引っ張りながら、点滴の針を気にしながら、
「ごめんね、ヴェル…」
と言ったときの顔は、
頬がこけ、目の下に濃い隈ができ、唇は血の気がなくて、
まるで紙のように薄かった。
けれど今、道に横たわる少女は
ヴェルと同じ13歳、いや、もうすぐ14歳になろうかという、
完璧な少女の体と顔をしていた。
頬には健康的な丸みが戻り、
唇には薄い桜色が宿り、
まつ毛は長くて、朝日に照らされて金色に輝き、
胸はふくらみ、腰はくびれ、脚は長く伸び、
まるでちゃんと一年と数か月を、
誰にも邪魔されずに生き抜いてきたような、
眩しいほどに美しい少女だった。
「……カズハ?」
ヴェルの声は掠れ、喉の奥が熱くなって、
涙が勝手に溢れそうになるのを必死に堪えた。
膝が震えて、地面に手をつきそうになる。
視界が歪み、朝日が滲んで見えた。
震える指先で、そっとその頬に触れた。
氷みたいに冷たい。
でも、まだ完全に硬くはなっていない。
死後四、五時間。
朝露が指先に冷たく伝わり、ワンピースの生地が薄くて、
肌の冷たさが直接伝わってくるほどだった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような痛み。
息が詰まって、肺が焼ける。
「嘘だろ……」と、レクトが呟いた。
「カズハってだって、1年前亡くなったヴェルの友達の……!」
「……うん、なんで、死んでなかったのかな……、、、、?」
瞳は大きく見開かれたまま、瞬きすら忘れている。
風が吹いた。
近くのイチジクの木の大きな葉が、ざわざわと鳴った。
甘酸っぱくて、少し青い、初夏特有の匂いがした。
その匂いが、ヴェルの記憶を一気に引き戻す。
去年の夏、カズハと二人でイチジクの実をもぎながら笑ったこと。
「甘いね」「でもちょっと渋いね」と言いながら、
指先をべたべたにしながら笑い合ったこと。
涙が、ぽたりとアスファルトに落ちた。
ヴェルはゆっくり立ち上がった。
足が震えて、膝がガクガクして、
一歩踏み出すたびに地面が揺れるような気がした。
「……母さんに、全部聞く」
声は震えていた。
でも、決意だけは揺るがなかった。
そこでレクトは思い出す。ヴェルの過去の発言。
カズハの死にはヴェルの母が関与していた噂のことを。
障子から差し込む朝日が、畳に長い光の帯を描いている。
ちゃぶ台には朝食の後片付けが済み、
味噌汁の湯気はもう消えていたが、
焼き鮭の香ばしい匂いと、漬物の酸っぱい匂いがまだ残っていた。
母は黒い作務衣のまま、
静かに煎茶をすすっていた。
湯呑みを持つ手は、いつも通り無駄な動き一つない。
でも、ヴェルにはわかった。
指の関節が、ほんの少し白くなっていること。
「母さん」
ヴェルは土間から一歩だけ踏み込んで、
声を絞り出した。
喉が痛い。
涙がまた溢れそうになる。
「カズハは……死んでなかったんだよね?
一年前、私に……嘘ついたよね?」
母は湯呑みを置く手を、ぴたりと止めた。
その瞬間、
部屋の空気が凍りついたような気がした。
「……座りなさい」
三人がちゃぶ台を囲む。
誰も茶には手をつけない。
湯呑みの湯気が、ゆっくりと立ち上って消えていく。
母は、長い沈黙のあと、
ゆっくりと口を開いた。
「一年前……あなたに、嘘をついたわ」
ヴェルの胸が、ぎゅうっと締め付けられた。
息ができなくなるほどの痛み。
「カズハは、あのとき死んでなんかいない。
病状が急に悪化して救急車で運ばれたのは本当。
でも、私は病院で……カズハと二人きりになったとき、
初めて、あの子が本当は何を考えていたかを聞いた」
母は目を伏せた。
まつ毛が、かすかに震えている。
「あの子は言ったわ。
『もうヴェルに会いたずらに期待させたくない』って。
『私の魔法は強いのに、身体が追いつかない自分が嫌だ』って。
……カズハは体が弱かったの。
あの日も病気の症状が出ちゃっていて搬送されたの。
でも魔法は優秀だった。
『親にも、先生にも、ヴェルにも……失望されたくない』って。
『だから、もう会わない』って」
ヴェルの視界が滲んだ。
涙が頬を伝い、顎からぽたりと畳に落ちる。
「だから退院したあと、あなたのところには戻らなかった。
家族と一緒に、山奥の小屋に移って、静かに暮らすことにした。
私はそれを……尊重したつもりだった」
「でも……葬式は?
墓もあった……骨壺も……」
「あれは全部、私が仕組んだ嘘よ」
母は初めて、声を震わせた。
「あなたが追いかけないように。
カズハ自身が『もう二度と会わないでほしい』って泣きながら頼んだから。
だから私は……あなたに『亡くなった』って伝えた。
骨壺も墓標も、全部偽物だった」
ヴェルは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、血が出そうなほどだった。
「でも今朝……
道で、カズハが……死んでた」
母は顔を上げた。
その瞳に、初めて恐怖に似た色が宿った。
「……え?」
風鈴が、チリンと鳴った。
その音が、胸の奥まで突き刺さった。
山道
三人は再び自転車に跨った。
陽射しはもう高く、背中がじりじりと焼ける。
汗が額を伝い、シャツが肌に張りつき、
息をするたびに喉が熱い。
ヴェルはペダルを踏みながら、
涙が風で乾いていくのを感じていた。
頬がひりひりする。
視界が滲んで、道が歪んで見える。
ミラは無言で隣を走っている。
長い紫髪が風に揺れ、
時々ちらりとヴェルを見て、
すぐに前を向く。
その瞳は、決意でいっぱいだった。
レクトは少し後ろから、
必死にペダルを漕いでいる。
汗がびっしょりで、シャツが背中に張りついている。
でも、顔は離さない。
「カズハの家に……
2人も付いてくるの?」
ヴェルが呟いた。
声は震えていたけど、
決意だけは揺るがなかった。
「なんでカズハが死んじゃったのか。
この目で確かめるのは、私だけでいいのに」
ミラが静かに頷いた。
「私も行く。
何かあったら困るし」
「俺も、
ヴェルは大切な友達だから」
三台の自転車は、坂を上り続ける。
杉林が深くなり、陽射しが木漏れ日になって、
地面にまだらな光の模様を描く。
湿った土の匂いが濃くなり、
遠くでホトトギスが鳴いた。
風が強くなった。
どこかでイチジクの葉が大きく揺れ、
甘酸っぱい初夏の匂いを運んでくる。
三人は無言でペダルを漕ぐ。
汗と涙が混じり、
頬を伝い、
シャツの襟を濡らす。
カズハの家は、もうすぐそこだ。
次話 1月3日更新!
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