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私がその犬を拾ったのは、雨の夜だった。
仕事帰り、人気のない道を歩いていると、電柱の下で小さな影が震えていた。近づいてみると、泥だらけの黒い子犬だった。首輪もなく、びしょ濡れで、細い体が小刻みに震えている。
「迷子か?」
しゃがんで声をかけると、子犬はゆっくり顔を上げた。真っ黒な目が、じっとこちらを見ている。
普通なら、尻尾を振ったり、逃げたりするはずなのに、その犬はただ静かに見つめていた。まるで、私を観察しているみたいに。
「……うち来るか?」
そう言うと、犬は一度だけ首をかしげてから、ゆっくり尻尾を振った。
それが、すべての始まりだった。
私はその犬に「クロ」と名前をつけた。黒いから、ただそれだけの理由だ。クロはとても大人しい犬だった。吠えないし、家具もかじらない。トイレもすぐ覚えた。
でも、少し変なところがあった。
クロは、夜になると必ず玄関の方を見て座るのだ。
じっと、玄関のドアを見つめたまま動かない。最初は「散歩に行きたいのかな」と思った。でも違った。外に出ても、クロは何もせず、ただ家の中に戻ろうとする。
まるで、誰かが来るのを待っているみたいだった。
ある夜、気になって聞いてみた。
「誰か来るの?」
クロはゆっくり私の方を見て、それからまた玄関を見た。
そのとき、ドアがコン、と小さく鳴った。
誰かがノックしたような音だった。
時計を見ると、夜中の2時。
こんな時間に誰が?
ドアスコープを覗いたけれど、廊下には誰もいない。気味が悪くて、私はそのまま鍵を二重にかけた。
振り返ると、クロがこちらを見ていた。
その目は、なぜか怯えているように見えた。
それからだった。
夜中になると、必ずノックが聞こえるようになった。
コン。
コン。
決まって、2回だけ。
最初のうちは気のせいだと思った。でも、クロはその音が聞こえるたびに、低く唸る。毛を逆立て、玄関に近づこうとしない。
まるで、ドアの向こうに「何か」がいると知っているみたいに。
ある晩、私はついにドアを開けてしまった。
コン。
コン。
ノックが聞こえた瞬間、私は勢いよくドアノブを回した。
「誰だ!」
ドアの外には、誰もいなかった。
廊下は静まり返り、蛍光灯が白く光っているだけ。
「……なんだよ」
そう呟いてドアを閉めようとしたとき、足元に何かがあった。
黒い毛だった。
犬の毛みたいな、長い毛。
私はゆっくり視線を上げた。
廊下の奥の暗闇に、何かが立っていた。
犬だった。
でも、クロじゃない。
クロは今、部屋の中にいる。
その犬は、クロとそっくりだった。ただ一つ違うのは——
目がなかった。
真っ黒な顔に、ぽっかり穴みたいな空洞があるだけだった。
私は慌ててドアを閉め、鍵をかけた。
心臓が壊れそうなくらい鳴っている。
振り返ると、クロが震えていた。
今まで見たことがないほど怯えていた。
それから、クロは玄関を見なくなった。
代わりに、私の後ろばかり見るようになった。
どこへ行っても、私の背後を見ている。
テレビを見ているときも。
ご飯を食べているときも。
寝るときでさえ。
ある夜、私はついに耐えきれなくなった。
「何がいるんだよ!」
振り返った。
誰もいない。
でもその瞬間、背後でクロが悲鳴みたいに吠えた。
今まで一度も吠えたことのない犬が、狂ったように吠えている。
クロは私の背中の向こうを見ていた。
ゆっくり、私は後ろを振り返った。
そこにいたのは——
もう一匹のクロだった。
ドアの外で見た、目のない犬。
それが、私のすぐ後ろに立っていた。
クロは震えながら唸っている。
目のない犬は、ゆっくり口を開いた。
そして、低い声で言った。
「やっと入れた」
その声は——
私の声だった。