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#溺愛
桜咲かな
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桜咲かな
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第262話 厳重保管区画
【現実世界・警察関連施設/地下厳重保管区画・夜】
地下三階。
一般の職員が立ち入ることのできない廊下の先に、その区画はあった。
入口には二重の防火扉。
生体認証。
物理鍵。
さらに、その奥にもう一枚。
ネットワークへ接続された機器は置かれていない。
監視カメラも、映像を施設内部だけで保存する独立型。
外部から操作できるものは一つもなかった。
それでも。
警察は、この場所を安全だとは考えていなかった。
保管されているものが、通常の証拠品ではないからだ。
最初の部屋。
透明な隔離容器の中に、黒く崩れた物体が置かれている。
人間だったもののようにも見える。
金属片のようにも見える。
表面には、乾いた赤茶色の粉。
ラストの残骸。
駅周辺で起きた戦闘のあと回収され、複数の施設を経由してここへ移されたものだった。
その隣。
別々の低温管理室に、成人男性と成人女性の遺体が一体ずつ保存されている。
地下の白いコアの部屋から回収されたものだ。
男性。
身元不明。
年齢推定は三十代後半から四十代。
目立った外傷は少ない。
しかし、血液や組織の状態と死亡からの経過時間が一致しない。
女性。
身元不明。
年齢推定は二十代後半から三十代。
胸部に大きな損傷。
傷は古い。
だが、その周囲だけ組織の劣化が不自然に遅い。
そして三つ目の部屋。
白いコア。
誰の意識なのか。
人間なのか。
それすら特定されていない。
回収された時から、ほとんど反応を示していなかった。
四つの保管対象は、互いに別室。
別電源。
別の監視装置。
接続線もない。
一つに異常が起きても、ほかへ広がらないようにするためだった。
◆ ◆ ◆
夜間確認を担当する警察官二名と技術職員が、最初の扉を通る。
「一番から確認します」
技術職員が紙の記録表へ時刻を書き込む。
電子端末は使わない。
ラストが電子機器だけではなく、
金属や固定された構造そのものへ影響したことが分かってから、
重要な記録は紙にも残されていた。
「ラスト残骸」
「容器温度、異常なし」
「内部圧力、異常なし」
「腐食反応――」
技術職員の手が止まった。
「どうした」
警察官が聞く。
「昨日より少し増えています」
透明容器の底。
赤茶色の粉が、前回より広がっている。
ほんの数ミリ。
写真を並べなければ気づかない程度。
「容器が錆びたのか」
「容器は樹脂です」
「じゃあ、これは」
技術職員は答えず、定規を取り出した。
赤茶色の線は、残骸から容器の底へ伸びている。
金属ではない。
それでも錆のようなものが生まれている。
「記録してください」
「異常扱いか」
「経過観察ではなく、報告対象にします」
警察官は通信機へ手を伸ばしかけた。
だが止める。
ここでは通常の無線も使わない。
報告は区画を出てからだ。
次の部屋へ移る。
◆ ◆ ◆
【男性遺体保管室】
室内は低温に保たれている。
中央に保存台。
透明な密閉容器の中に、成人男性が横たわっていた。
眠っているようにも見える。
だが、生命反応はない。
「温度、正常」
「容器内気圧、正常」
「生体反応――なし」
技術職員が確認する。
警察官の一人が、男性の顔を見た。
「これ、本当に死体なんですよね」
「医学的には」
「医学的には?」
「死亡しています」
技術職員は淡々と答えた。
「ただ、通常の遺体とは違う点が多すぎる」
「例えば」
「脳組織の劣化が均一ではありません」
「胸部や腹部は死後変化が進んでいるのに、頭部の一部だけ時間が止まったような状態です」
「それって、意識が残ってるとか」
「分かりません」
即答だった。
分からないものを、生きているとも死んでいるとも勝手に決めない。
それが、この事件に関わる者たちの間で少しずつ共有され始めた考え方だった。
技術職員が保存台の下を見る。
「……これ」
「今度は何だ」
床に、小さな赤茶色の点。
一つ。
二つ。
保存容器の外側。
「ラストの部屋から持ち込んだ?」
「ありえません」
手袋も器具も部屋ごとに交換している。
空調も別。
「じゃあ何でここにある」
技術職員は答えなかった。
赤茶色の点は、まだ錆と呼ぶには小さすぎた。
◆ ◆ ◆
【女性遺体保管室】
女性の身体は、男性とはさらに離れた場所で保存されていた。
胸部には大きな損傷が残っている。
縫合された形跡はない。
現代の医療器具による傷とも一致しなかった。
技術職員が紙の記録を読み上げる。
「体温反応なし」
「脳波なし」
「組織変化、前回と大きな差なし」
「胸部損傷部――変化なし」
警察官が尋ねる。
「男性と同じ異常は?」
「今のところありません」
床を見る。
赤茶色の粉もない。
容器にも異常なし。
女性は、ただ静かに横たわっている。
長い間そうしていたように。
警察官は数秒だけ顔を見た。
「この人たち、誰なんでしょうね」
「それを調べるために保管しています」
技術職員が記録へ印をつける。
「今は、それ以上は分かりません」
扉を閉じる。
ロック。
二重確認。
女性遺体の部屋には、それ以上の変化は起きなかった。
◆ ◆ ◆
【白いコア保管室】
最後。
白いコア。
拳より少し大きい透明な容器の中で、淡い白色の塊が浮いている。
光っているようにも見える。
だが、自ら発光しているのか、照明を反射しているだけなのか。
検査するたび結果が変わる。
「反応値」
技術職員が計測器を見る。
「ほぼゼロ」
「昨日と同じ?」
「――待ってください」
数値が動く。
一度だけ。
ほんのわずか。
ゼロに近かった線が上へ跳ねる。
すぐに戻った。
警察官が白いコアを見る。
「今、何かしました?」
「していません」
「外から通信が入ったとか」
「この部屋には通信回線そのものがありません」
技術職員は記録表へ時刻を書いた。
その時。
壁の向こうから。
かすかな音がした。
――カリ。
三人が動きを止める。
「何だ」
もう一度。
――カリ。
爪で何かを引っかくような音。
方向は。
男性遺体の保管室。
◆ ◆ ◆
三人が急いで戻る。
扉は閉じている。
警報も作動していない。
認証記録にも異常なし。
警察官が物理鍵を確認する。
「開けます」
「待って」
技術職員が止めた。
「まず外から確認します」
小さな観察窓。
そこから室内を見る。
保存容器。
男性遺体。
変化はない。
「何も――」
警察官の言葉が止まった。
床。
先ほど二つだけだった赤茶色の点。
増えている。
五つ。
六つ。
そして。
保存容器の下へ向かって、細い線になり始めていた。
「ラストの錆……?」
技術職員の顔色が変わる。
「違う部屋なのに」
その瞬間。
室内の照明が一度だけ消えた。
すぐ復旧する。
「電源異常!」
「この部屋だけです!」
警察官が緊急ボタンへ手を伸ばす。
押す。
何も鳴らない。
もう一度。
反応しない。
「区画から出る!」
三人が廊下へ走る。
その背後。
透明な観察窓の向こうで。
男性遺体の右手。
人差し指が。
ほんのわずかに。
動いた。
誰も見ていなかった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸旧研究施設/身体側固定室・同時刻】
日下部の端末に、警察施設から緊急報告が入った。
通常回線ではない。
中継担当が内容だけを読み上げている。
『厳重保管区画で異常』
城ヶ峰が振り向く。
「何が起きた」
『ラスト残骸の腐食反応が増加』
『さらに、別室で保管中の男性遺体周辺にも類似した赤茶色反応を確認』
木崎の表情が変わる。
「別室だろ」
『はい』
日下部が尋ねる。
「接続は」
『ありません』
「空調」
『別系統』
「電源は」
『独立しています』
日下部の指が止まった。
物理的に繋がっていない。
ネットワークもない。
同じ建物にあるというだけ。
城ヶ峰が言う。
「ラストの残骸を移す」
「待ってください」
日下部が止めた。
「動かさない方がいい」
「理由は」
「もし、距離ではなく別の条件で繋がっているなら、
移動させることで何が起きるか分かりません」
木崎が聞く。
「別の条件?」
日下部は厳重保管区画の配置図を見る。
ラスト。
男性遺体。
女性遺体。
白いコア。
それぞれ隔離されている。
「ラストは、以前から“止まっているもの”へ強く反応していました」
駅。
金属。
固定された建造物。
動きを失った場所。
「死体も、止まっているものだと言いたいのか」
城ヶ峰が聞く。
「それだけでは説明できません」
日下部は男性遺体の記録を開く。
「二体あるのに、反応が出たのは男性側だけです」
女性遺体には変化なし。
なぜ男性なのか。
違いは何か。
「男性遺体の意識反応は」
「ほぼありません」
「女性側よりも?」
日下部は比較データを見る。
しばらく黙る。
「はい」
「男性の方が、本人を示す反応が少ない」
木崎が顔をしかめる。
「本人を示す反応?」
「名前」
「記憶」
「身体との結びつき」
「それらが男性側では、ほとんど残っていません」
城ヶ峰の目が細くなる。
「空っぽに近い?」
「……そう見えます」
その言葉を口にした瞬間。
日下部自身が嫌な感覚を覚えた。
身体だけがある。
だが、その身体が誰だったのかを示すものが弱い。
帰る意識がない。
名前もない。
役割も薄い。
それは。
何か別のものにとって。
入り込みやすい器なのではないか。
「保管区画へ連絡」
城ヶ峰が命じる。
「男性遺体には近づくな」
「ラスト残骸も動かすな」
「全員を区画外へ退避させろ」
『了解』
木崎が匠の保存槽を見る。
「こっちも似たようなもんじゃないだろうな」
「違います」
日下部はすぐに答えた。
「匠さんには名前があります」
「本人の意識もある」
「帰るという現在の選択もある」
「身体との繋がりも切れていない」
木崎は少しだけ息を吐く。
だが安心はできない。
現実側でも。
別の場所で、何かが動き始めている。
◆ ◆ ◆
【警察関連施設/地下厳重保管区画・同時刻】
人員の退避が始まっていた。
最終確認を終え、保管区画の外側から物理ロックをかける。
内部は無人になる。
監視だけが残る。
独立カメラの映像。
ラスト残骸。
変化なし。
女性遺体。
変化なし。
白いコア。
変化なし。
男性遺体。
変化なし。
映像上は、何も起きていない。
監視員が画面を見つめている。
一分。
二分。
三分。
その時、
男性遺体を映すカメラだけに、細いノイズが走った。
映像が一度止まる。
次の瞬間。
時刻表示が、一秒だけ逆へ戻った。
監視員が身を乗り出す。
「今の……」
映像は正常に戻る。
男性遺体も動いていない。
だが。
床に広がっていた赤茶色の線が、保存容器の真下まで届いていた。
さらに
ラスト残骸の部屋。
黒く崩れた物体の奥に
小さな文字が浮かぶ。
電源はない。
画面もない。
それでも、黒い表面の一部が文字の形へ変わった。
《器》
一文字。
すぐに崩れる。
誰もそれを読めなかった。
そのさらに奥。
赤茶色の粉が
ゆっくりと。
男性遺体のある方向へ伸びていった。
コメント
1件
うわ…第262話、めっちゃ重くて静かに怖かったです。ラストの残骸が別室の男性遺体にまで影響を広げてるの、物理的接続がないのにってとこが不気味すぎる。日下部さんの「空っぽに近い器」って分析、匠さんと対比されててゾッとしました。最後の《器》の文字、読めた人いたのかな…これからどうなるか気になります。橘さんのこういうじわじわ系の恐怖、すごく好きです。