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#溺愛
桜咲かな
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#溺愛
桜咲かな
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第263話 空白の器
【現実世界・湾岸旧研究施設/身体側固定室・夜】
厳重保管区画から届いたデータが、日下部の画面に並んでいた。
男性遺体。
女性遺体。
ラストの残骸。
白いコア。
四つの保管対象。
そのうち、異常が集中しているのは二つだった。
ラストの残骸。
そして、男性遺体。
「もう一度、比較します」
日下部が言った。
城ヶ峰と木崎が画面の前へ集まる。
最初に表示されたのは女性遺体。
《生命反応・なし》
《意識反応・微弱》
《身体固有反応・残存》
《外部腐食反応・なし》
続いて男性遺体。
《生命反応・なし》
《意識反応・ほぼなし》
《身体固有反応・極低》
《外部腐食反応・増加》
木崎が腕を組んだ。
「身体固有反応ってのは何だ」
「その人の身体が、その人自身と結びついていた痕跡です」
「死んだあとも残るのか?」
「普通は、残ります」
日下部は答えた。
「名前を呼んだ時の反応」
「身体に残る記憶」
「意識との結びつき」
「完全に意識そのものではありません」
「でも、この身体が“誰かの身体だった”という痕跡は残ります」
城ヶ峰が女性側を見る。
「女性にはある」
「はい」
「男性にはない」
「かなり少ないです」
木崎が顔をしかめる。
「それじゃ、こいつは最初から人間じゃなかったのか」
「そこまでは言えません」
日下部は首を振った。
「元は人間だった可能性もあります」
「ただ――」
言葉を止める。
男性遺体の内部反応を拡大する。
頭部。
胸部。
神経系。
どこにも、強い中心がない。
「今の状態だけ見れば」
日下部は慎重に言った。
「誰かが戻る場所として残っている身体には見えません」
城ヶ峰の目が細くなる。
「空いている?」
日下部は少し迷ってから頷く。
「それに近いです」
木崎が低く言う。
「だからラストが寄ってる」
誰も否定しなかった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・警察関連施設/地下監視室・同時刻】
厳重保管区画は無人のままだった。
監視室には警察官と技術職員が数名。
複数の画面が並んでいる。
ラスト残骸。
男性遺体。
女性遺体。
白いコア。
すべて静止している。
一見すれば、何も起きていない。
だが、
男性遺体の部屋だけ。
床の赤茶色の線が、少しずつ増えている。
「三ミリ」
技術職員が言った。
隣の警察官が時計を見る。
「何が」
「十分前より伸びています」
「動いてるのか?」
「映像では分かりません」
一分間隔の静止画像を重ねる。
わずかに位置が違う。
赤茶色の線は確かに伸びている。
ラスト残骸の部屋。
男性遺体の部屋。
物理的な通路はない。
それなのに。
二つの赤茶色の反応は、まるで互いの位置を知っているようだった。
「城ヶ峰さんへ報告」
警察官が言う。
「もう送っています」
「男性遺体を別施設へ――」
「移動禁止の指示です」
「じゃあ、このまま見てるだけか」
「今は」
技術職員は画面から目を離さなかった。
その時。
男性遺体の心電計が動いた。
一度。
ピッ。
全員が振り向く。
平坦な線。
「今のは?」
「心拍?」
「違います」
技術職員が記録を確認する。
「心臓は動いていません」
「じゃあ何だ」
「電気信号だけです」
一秒。
二秒。
三秒。
もう一度。
ピッ。
今度は、胸ではない。
頭部からだった。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cの前に、男性の身体が表示されていた。
骨格。
神経。
脳。
身体の各部位。
その横に、ラストの残骸。
赤茶色の腐食反応。
黒い断片。
過去にラストが残した攻撃記録。
すべてが並べられている。
オルガが男性遺体の反応を見る。
「想像以上に薄い」
白峰律が尋ねる。
「何が」
「元の持ち主だ」
オルガは答えた。
「身体はある」
「だが、そこへ戻ろうとする意識の反応がほぼない」
「名前による固定も弱い」
「記憶反応もない」
ジャバは別の画面で、保護施設への攻撃を続けている。
そのため、この場にはいない。
カシウスは男性遺体を見つめた。
「使えるか」
Cが答える。
『適合率を計算します』
細い数字が高速で流れる。
《身体維持・可能》
《意識固定・不足》
《元人格干渉・極低》
《外部役割受容・高》
《腐食構造適合・上昇》
白峰の表情が硬くなる。
「外部役割受容?」
『この身体には、自己定義がほとんど残っていません』
Cは淡々と答えた。
『別の人格、役割、記録を固定した場合、拒絶反応が少ないと予測されます』
オルガが言う。
「空白に近い器か」
『はい』
カシウスは男性の顔を見る。
眠っている。
あるいは。
何も入っていない。
「ラストを入れられるか」
白峰がカシウスを見る。
「本気か」
「使えるものは使う」
「ラストは意識体じゃない」
白峰が言った。
「少なくとも、普通の人間の意識とは違う」
「腐食」
「役割」
「残留した命令」
「それが混ざった存在だ」
「だからいい」
カシウスは答えた。
「人間へ戻す必要はない」
「ラストとして動けばいい」
白峰は黙った。
Cがラスト残骸を分析する。
そこには、完全な人格は残っていない。
しかし。
《停止》
《腐食》
《侵食》
《固定物破壊》
《役割模倣》
断片的な命令。
行動傾向。
戦闘記録。
現実世界で得た情報。
それらは残っている。
Cが告げる。
『ラストの再構成には、四項目が必要です』
一。
『行動記録』
二。
『腐食能力の構造』
三。
『自己認識の中心』
四。
『器』
オルガが尋ねる。
「自己認識は残っているのか」
『完全ではありません』
Cの画面に、一つの言葉が現れる。
《止める》
続いて。
《動くものを止める》
《固定する》
《腐食させる》
《自分はラスト》
最後だけが、何度も揺れる。
白峰が言う。
「名前だけ残っている」
「名前というより役割だ」
オルガが訂正する。
カシウスは答えた。
「今はそれで十分だ」
◆ ◆ ◆
別の画面に、女性遺体が表示された。
Cが比較する。
《身体固有反応・残存》
《外部役割受容・低》
《腐食構造適合・低》
《元反応との干渉可能性・あり》
カシウスは一度見ただけで視線を外した。
「そちらは使わない」
それだけだった。
特別な説明もない。
興味を示すこともない。
Cは画面を閉じる。
残ったのは男性遺体。
カシウスが言った。
「始めろ」
白峰が止める。
「待て」
カシウスが見る。
「何だ」
「Cが現実側の独立施設へ直接触れば、向こうに気づかれる」
「すでに気づいている」
「異常に気づいているのと、目的を知られるのは違う」
白峰は男性遺体の画面を見る。
「今の城ヶ峰たちは、ラストが男性遺体へ反応しているところまでしか分かっていない」
「移植だと分かれば、対策される」
カシウスは少し考える。
「なら、直接入れるな」
Cが尋ねる。
『段階的移行ですか』
「そうだ」
カシウスは答える。
「最初は腐食だけ」
「次に記録」
「最後に名前を入れる」
オルガが静かに言う。
「身体自身に受け入れさせる形に見せる」
「そういうことだ」
Cの黒い線が、ラスト残骸から伸び始めた。
◆ ◆ ◆
【警察関連施設/地下厳重保管区画】
ラスト残骸の表面。
赤茶色の粉が震える。
最初に動いたのは、ごく小さな粒だった。
一粒。
二粒。
三粒。
それらが残骸から離れる。
だが、床へ落ちない。
空中で消える。
同時に。
男性遺体の保存容器の中。
右腕の皮膚に、小さな赤茶色の点が現れた。
監視員が気づく。
「皮膚!」
技術職員が拡大する。
「何だこれ……」
腕。
肩。
胸。
小さな点が増える。
だが、外側から付着しているのではない。
皮膚の内側から浮かび上がっている。
「容器を開けるな!」
監視責任者が叫ぶ。
「全員、そのまま!」
警報が鳴る。
今度は正常に作動した。
赤いランプが点灯する。
男性遺体の胸元。
赤茶色の線が一本。
ゆっくりと心臓へ向かって伸びる。
◆ ◆ ◆
【湾岸旧研究施設/身体側固定室】
日下部の端末へ新しいデータが届く。
「増えた」
木崎が尋ねる。
「何が」
「男性遺体の内部に腐食反応」
「内部?」
「皮膚の表面からじゃありません」
日下部は画面を拡大した。
「身体の中から出ています」
城ヶ峰が低く言う。
「ラストが入っている?」
「まだ分かりません」
「でも」
日下部の指が、男性の頭部反応で止まる。
先ほどまでほぼゼロだった脳内電気信号。
そこに、ごく小さな波が生まれている。
人間の脳波とは違う。
一定。
単純。
繰り返す。
日下部は波形を別のデータと重ねた。
ラストが駅周辺で残した腐食反応。
形が似ている。
「……まずい」
木崎が聞く。
「何が分かった」
「これは復活じゃない」
日下部は言った。
「まだ身体を動かしてない」
「じゃあ何だ」
「中へ入り始めてる」
室内が静かになる。
「身体を使う準備をしてる」
城ヶ峰は即座に指示した。
「保管区画を完全封鎖」
「男性遺体とラスト残骸の監視を最優先」
「女性遺体と白いコアは?」
「別系統のまま維持してください」
日下部が答える。
「動かさない方がいい」
木崎が男性遺体の画像を見る。
「もし起きたら」
日下部は答えなかった。
ラストを倒した時。
あれは人間の姿を借りていた。
だが、次に起き上がるものは。
最初から人間の身体を持っている。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cの画面に進行状況が表示される。
《腐食構造・移行開始》
《身体拒絶・なし》
《神経経路・接続開始》
《元人格干渉・なし》
白峰が最後の項目を見る。
「本当に何も返ってこない」
オルガが答える。
「空白だからだ」
Cが次の処理を表示する。
《行動記録移行》
カシウスが言う。
「まだ名前は入れるな」
『了解しました』
「身体が記録を受け入れるまで待て」
黒い線が一本ずつ男性の身体へ入っていく。
駅。
学園。
ハレル。
リオ。
城ヶ峰。
光。
固定。
戦闘。
逃走。
ラストが見てきたもの。
壊してきたもの。
触れてきたもの。
それらが、空白の身体へ流れ込む。
そして。
最後に一つ。
まだ転送されていない項目が残った。
《LAST》
カシウスはそれを見る。
「それは最後だ」
Cが応じる。
『はい』
男性遺体の指が、
ほんのわずかに曲がった。
まだ目は開かない。
呼吸もしない。
心臓も動いていない。
それでも。
空白だった身体の中に、何かが入り始めていた。
コメント
1件
第263話、読みました。 「空白の器」──タイトルがそのまま核心を突いていて、本当にぞくっとしました。日下部の「戻る場所として残っている身体には見えない」という分析と、Cの「外部役割受容・高」が完全に一致して、設定の整合性が気持ち良かったです。特に、名前だけが「自分はラスト」と揺れていて、最後に残されるという構造は、この物語の世界観をよく表しているなと。 そして、身体の中から腐食反応が出始める描写。外からではなく内側から──というのが、器としての受け入れが始まった証拠で、次の展開が怖いけど気になります。城ヶ峰たちの焦りが伝わってくる回でした。