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私には、好きな人がいる。
とても昔から、ずっと変わらず。
屋敷の廊下を歩くたび、あちこちに飾られた大輪の薔薇が揺れ
紅茶の芳醇な香りが漂う部屋の前を通るたび、気づけば私は、その人の姿を探してしまう。
「ルカス」
名前を呼ぶだけで、凍てついていた胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
それが恋だと誰かに教えられなくても、この高鳴りが、この渇きが特別なものだということくらい、私にだって分かっている。
ルカスは、私の家の執事長だ。
五歳の頃から、ずっと私のそばにいてくれた人。
十三年前、最愛の母様が病死して、世界のすべてが灰色に見えていたとき。
私が部屋に閉じ籠り、誰の声も拒んで膝を抱えていたとき。
転んで膝を擦りむいて泣いた日も、夜中に怖い夢を見て震えた夜も。
彼は必ず、雨上がりの空のように澄んだ静かな声で、私の名前を呼んでくれたのだ。
『───大人になったら、ルカスと結婚するの!』
背伸びをして、彼の大きな首元に抱きついたあの日のことを、私は今でも昨日のことのように覚えている。
子供の冗談でも、ただの遊びでもなかった。
あのときの私は、心臓が爆発しそうなほど本気だったし、大人になった今も、その熱は一分たりとも冷めてはいない。
だから私は、隠さない。
「今日も素敵な結い方ね。……ねえ、ルカス。もっと近くで見てもいいかしら」
朝の柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、豪華なドレッサーを照らす身支度の時間。
鏡越しに、私を磨き上げるルカスを見つめて問いかける。
彼の長く、白手袋に包まれたしなやかな指先が、私の金髪に触れるたび。
梳かれる髪が彼の指を滑るたび。私の心臓はトクトクと、自分でも呆れるほど騒がしく跳ね上がる。
その熱を伝えたくて。期待を込めて
そっと、彼の大きな手に自分の手を重ねようとした───けれど。
「ありがとうございます、お嬢様。……おっと、動かれますと櫛が引っかかってしまいますよ」
ルカスは、まるで羽がそよ風に揺れるような
あまりに自然で淀みのない動作で、私の手をさらりとかわした。
温もりを求めて重ねようとした私の手は行き場を失って
空を切り、所在なげに自分の膝の上へと着地した。
「もう……ちょっとくらい良いじゃない」
鏡の中で不服そうに頬を膨らませる私を、彼は動じることなく見つめ返す。
「滅相なことを。私はお嬢様の執事であって、それ以下でもそれ以上でもありませんから」
彼は涼しい顔で、完璧な角度の、非の打ち所がない一礼を捧げる。
この人は、いつもこうだ。
私がどれだけ剥き出しの情熱をぶつけても、まるで柳に風、岩に波。
すべてを「執事の礼儀」という冷たい膜で跳ね返してしまう。
やはり、彼にとっては五歳の頃の「結婚の約束」なんて
屋根裏部屋の引き出しの奥に仕舞い込まれた、埃を被った古い絵本のようなものなのだろうか。
結局、朝の攻防はいつものように私の完敗で終わった。
◆◇◆◇
昼下がり
澄み渡る青空の下、豪華な金細工が施された馬車が、屋敷の重厚な車寄せに音を立てて止まった。
今夜の夜会には、私と父様だけでなく
執事長のルカスを含める四人の執事を同席させることとなった。
それはローズ家の威信を示すためであり
同時に「淫乱令嬢」という不名誉な噂に晒される私を守るための、物々しい布陣でもあった。
「ルビー、いいか? 今夜は隣国の公爵も出席される。トラブルを起こさぬようにな」
馬車のふかふかとしたシートに深く腰掛けた父様が
愛娘を見る甘さと、当主としての厳格さを混ぜ合わせたような、低く重みのある声で言った。
ローズ家の現当主にして、私の実の父親、ヴィル・ローズ。
「淫乱娘」「貴族の男を弄ぶ女」……
そんな、私の容姿から勝手に一人歩きした根も葉もない世間の噂を世界で一番心配しているのは、間違いなくこの人だ。
「わかっていますわ、お父様。私はただ、ローズ家の名を汚さぬように微笑んでいるだけですもの」
私は窓の外を流れる緑の景色を見つめ、不満げに小さく唇を尖らせた。
私にそんな余裕などないことも
殿方と目を合わせるだけで心臓が震えてしまうようなウブな性格だということも、世間はこれっぽっちも分かっていない。
馬車の向かい側、補助席にはルカスが静かに腰掛けている。
大きく揺れる車内であっても
彼の背筋は定規を当てたように美しく、微塵も姿勢が崩れることはない。
その切れ長の瞳は、常に私と父の様子を公平に、そして淡々と見守り続けている。
「……ルカス。ルビーの護衛は任せたぞ。最近は妙な輩が、この娘の不実な噂を聞き付けて擦り寄ってくると聞く」
「はっ、ヴィル様。お嬢様の身の安全、そしてローズ家の名誉に傷が付かぬよう、万全を期して務めさせて頂きます」
ルカスは淀みのない、濁り一つない声で応じる。
その横顔はあまりに完璧な、彫刻のような執事そのものだった。
朝、私の手をやんわりと拒んだときと同じ、決して踏み込ませない完璧な距離感を感じさせた。
馬車が夜会の会場となる王都の別邸に近づくにつれ、沿道には華やかに着飾った貴族たちの姿が増えていく。
窓のカーテンを少しだけ引くと、私に気づいた貴族や令嬢たちが
獲物を見つけた獣のようにヒソヒソと扇で口元を隠し、冷ややかな視線を送ってくるのが見えた。
また明日には、新しい艶聞が生まれるのだろう。
やがて馬車が止まり、重厚な扉が開かれる。
ルカスが先に降り、恭しくこちらへ手を差し出してきた。
汚れ一つない白手袋に包まれたその手。
それは、私がどんなに焦がれるような熱い視線を送っても決して熱を帯びることも、震えることもない。
(……見てなさい。今夜こそ、ルカスのその澄ました仮面を崩してあげるんだから……!)
私は、冷たいルカスの手に自分の熱い手を重ね
煌びやかで毒に満ちた光の世界────
夜会の会場へと、決然とした足取りで踏み出した。