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治療経過日記 主治医 松尾聡介 患者 南圭太(14・男)
この日記では重度のアレキシサイミア(失感情症)を患っている南圭太くんの治療経過について、主治医の松尾が記していく。
治療は比較的新しい方法であるバーチャル治療で行う。バーチャル治療とは精神疾患を患っている患者にVRゴーグルを使用させ、治療に有効であるバーチャルの世界で生活してもらう事によって精神疾患の治療を行うというものである。
私はこの治療法を行うのは初めてなので正直不安ではあるが、バーチャル治療の評価はかなり高く、効果は期待できると言っていい。圭太くんは4歳の時に交通事故に遭い、ショックによって感情が乏しくなった。彼が6歳の頃から私が様々な治療を試みてきたが効果がでなかった。このバーチャル治療によって圭太くんの病状が良くなることを願っている。
治療初日 7月7日
圭太くんが初めてゴーグルを装着した。この治療にはかなりのお金がかかるが、両親は圭太くんが感情を出せるようになるならと多額の治療金をだしてくれている。彼の両親のためにも必ず治療は成功させなければならない。
治療2日目 7月9日
この治療は他の治療と比べると比的短期間で効果がでるが、とはいえすぐに効果が出るわけではない。ゴーグル装着前と装着後に圭太くんに問診をしてみたが、特に変化は無かった。気長に治療をしていくしかないだろう。初めのうちは病院にて治療を行うことが義務づけられている。病院に通うのも大変だろうが堪えてもらうしかない。
治療3日目 7月11日
正直驚いている。まだ治療3日目だというのに。治療後の問診で私が軽いジョークをした時である。圭太くんが笑顔を見せたのだ。圭太くんの喜怒哀楽の「楽」が回復してきているということだ。
このバーチャル治療は素晴らしい効果を彼に与えているのだろう。もうしばらく病院の治療で病状が良くなれば、ゴーグルを両親に預けて自宅での治療に変えることができるはずだ。
治療4日目 7月12日
今日はゴーグル装着前の問診でも圭太くんは笑顔を見せてくれた。なんでもゴーグルをつけるのが楽しみで仕方ないらしい。
そういえばバーチャル空間がどのような場所かについてまだ記していなかった。患者によって見せる景色を変えているのだが、圭太くんの場合は異世界空間の景色を見てもらっている。その空間は現実にはない様々な能力が使える世界であり、現実とは違うファンタジーな世界を圭太くんはバーチャル空間で体験している。もちろんただの楽しいだけの空間ではなく、科学的根拠に基づき患者に良い影響を与える効果のある空間である。
この治療法は間違いなく素晴らしいもののようだ。これなら次回で病院での治療は最後にしても良いかもしれない。
治療5日目 7月18日
治療経過が良好なので、圭太くんの両親に自宅での治療を推奨し、承諾をもらった。治療といってもゴーグルを決まった時間装着するだけなのだから簡単である。
しかし両親に少し元気がないように思えた。自宅での治療を推奨したときも何か引っかかっているような様子に見えた。何か気になっているのかと尋ねたが大丈夫だという返事しか返ってこず。圭太くん自体の治療は順調なので一旦様子を見ることにする。
8月3日
午後9時、圭太くん両親からゴーグルをつけていた圭太くんがもがき苦しみだし、外しても精神状態が安定しないと連絡があった。機械の不具合か?至急圭太くんの家に向かう。
8月4日 治療開始から29日
圭太くんにはしばらくの間入院してもらうことになった。治療が上手くいっていただけにとても残念である。
圭太くんはまだ精神状態が安定せず、ひとまず睡眠薬を飲ませて落ち着いてもらっている。両親からこんな話を聞いた。圭太くんのバーチャル世界へののめり込みは凄まじく、両親の目を盗んで、治療時間外にもゴーグルをつけていることがあったそうだ。つけてない時も様子がおかしいことがあったようで、鏡に向かって話しかけていたり、夜中ずっと笑い続けていたりしたそうだ。治療の副作用だと両親は考えてたそうだが、そのような症状が出るのは明らかに異常である。
バーチャル治療を信用しすぎて気づけなかった私が悪い。圭太くんが落ちつけば彼に診察を行なって原因究明を行う。
8月5日 治療開始から30日
圭太くんの症状は安定せず。今日書けるのはこれだけである。
8月6日 治療開始から31日
圭太くんが少し落ち着いてきた。昨日バーチャル治療の器具を提供している企業に連絡を取ったが、圭太くん本人から何があったのか聞けないと何もコメントができないというような様子だった。明日診察ができれば良いのだが。
8月7日 治療開始から32日
圭太くんから聞けたのは以下の通り。
・バーチャル世界が楽しすぎて現実世界にいたくない。
・8月3日にバーチャル世界で包丁を持った敵に何度も刺された。
・先生、早くゴーグルをください。
例の企業にもいろいろと聞かないといけないようだが、私は圭太くんに何をしてあげればいい?
8月8日
例の企業の責任者と対談してきた。なんでもバーチャル世界は人ではなくAIが生成しているようで、これまで何度かバーチャル世界におけるバグが確認されたことがあったようだ。今回の件のような患者に明らかな危害が出たのは初めてだそうだが。
正直私が怖いのはバグのことより依存性である。圭太くんはバーチャル世界で酷い目に遭ったのにも関わらず、ゴーグルをつけてくださいと私に懇願するのだ。そんなにバーチャル世界は「楽しい」ものなのだろうか。
8月9日
圭太くんの両親が例の企業を訴えるそうだ。まぁ無理はないか。今の圭太くんはゴーグル無しでは生きていけない状態だ。
元を言えばバーチャル治療を勧めた私に責任がある。罪悪感に押しつぶされそうだ。ここ数日間寝ずに解決策を考えていた。これからその策を実行しようと思う。
解決策とは私自身が圭太くんがゴーグルを通して見ているバーチャル世界に行くというものだ。圭太くんと同じ世界に行けば何か見つかるかもしれない。それではこれからゴーグルをつけようと思う。行ってきます。
8月20日
私は看護師の三井咲です。松尾先生に頼まれてこの日記に記しています。今後は私がこの日記をつけていきます。南圭太さんは病状が安定したので、現在自宅療養中です。ゴーグルによる治療を今後も続けつつ経過を伺います。
正直に言うと私はバーチャル治療はやめた方がいいと思っています。松尾先生にもそう言いました。しかし松尾先生は圭太くんにはバーチャル治療を行うしかないと言い、私の意見に取り合ってはくれませんでした。松尾先生や圭太さんはゴーグルを通して何を見たのか、私も気になります。そんなにバーチャル世界は楽しいものなのでしょうか。
8月22日
南圭太さんの診察に着いていきました。松尾先生と圭太さんは診察中ずっとバーチャル世界について話していました。最近松尾先生自身も毎日ゴーグルをつけ始め、仕事がない時間はバーチャル世界に行っているようです。圭太くんの治療のためと言ってはいますが、実際のところは分かりません。松尾先生自身も依存してしまっているのではないか心配です。
さらに驚くべきことは、圭太くんの両親もゴーグルをつけ始めたということです。これに関しても親と子で同じ世界の共有をすることが治療につながるのではないかという松尾先生の提案によるものです。両親に今後の治療についての相談を行いましたが、バーチャル治療についての疑問はすっかりなくなっているような様子に見えました。私からしてみれば異常に思えます。一度自分たちの息子に明らかな危害を与えたものなのですから。圭太さんの両親の了解のもと、バーチャル治療は今後も続けることになりました。
8月25日
松尾が記す。バーチャル空間は素晴らしい。あの世界は我々に喜怒哀楽で言うところの「楽」を与えてくれる。本当に楽しいのだ。試しに圭太くんの見ている世界とは違うプランも試して見たが、そちらもとても楽しかった。
もう治療のことなど気にせずずっとゴーグルをつけていてはいけないだろうか。あの体験を一度してしまってはもう前のようには戻れまい。三井くんにもバーチャル世界をお勧めしよう。
8月26日
三井です。バーチャル世界に行ってきました。皆さんがあの世界が楽しいと言っている意味がわかりました。もう看護師なんかやめてずっとあの世界にいたい。私もおかしくなってしまった?いや、現実がおかしいんだ。現実は嫌なことや大変なことばかりで楽しくないことがたくさんある。
でもあの世界に行けば楽しいことだけやればいい。あの世界にさえ行くことができれば何もかもかいけつする。あのせかいにさえいければいいあのせかいにいきたい
10月12日
私はこの日記でいうところの例の企業の責任者だ。この日記を見る限り、実験は成功したようだ。人によって洗脳できるスピードや度合いは違うようだが。
人の感情とは単純である。喜怒哀楽という言葉があるが、一つでも欠けたりあるいは過剰に与えられたりすると人は簡単に壊れてしまう。人の精神を知り尽くしているプロでさえこうなってしまうのだから。今回の例ではその感情が「楽」だったということだ。
この日記の持ち主であった松尾という男はバーチャル世界を周りの人間に勧め始めた。その結果何人もの人間がゴーグルによって楽しいという感情を過剰に与えられ続けられ、精神が崩壊した。松尾は被害者の親族達によって訴えられ、今回の事件の主犯格ということになっている。我が企業も時間の問題だろうが、金さえ積めば周りを黙らせることなど簡単だ。いざとなればこの企業も捨てればいい。元を言えばこの実験をするために作り上げた企業だったのだから。
私は昔から人を思うがままに操るのが楽しくて仕方がない。今回の被験者達みたいにわざわざバーチャル世界に行かなくたって、現実に楽しいことが溢れている。私も壊れているのかもしれないが、別にいい。「楽」という感情に溢れていることは、私にとって素晴らしい多幸感を与えてくれるのだから。
この日記は[バーチャル世界においての「楽」の実験]の結果の貴重な資料として保管することにする。次は他の感情でも試してみよう。