テラーノベル
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第80話 残らなかったもの
帝辛が茶を淹れ始めた。
縫季は黙って、その手元を見た。
湯気が立つ。香りが広がる。
帝辛の指先が――湯の上で、止まった。
触れない。触れずに、温度を測る。
縫季の息が、止まった。
指先が空気を読み取っている。ほんの一瞬。
それから、碗を傾ける。
湯が茶葉へ落ちる。静かな音がして、香りがふわりとほどけた。
帝辛が碗を持ち上げる。
差し出す前に――碗の向きを、ほんの少し整えた。
縫季の口が当たる場所を、縫季のために空ける。
その小さな配慮が、今度ははっきりと縫季の胸を打った。
(……その仕草)
(この世界線のお前が、なぜそれをする)
(覚えていないはずなのに)
碗が、縫季の手に渡る。
「熱い。気をつけろ」
あまりにも自然に、帝辛がそう言った。
縫季の目が、揺れる。
それは記憶ではないのかもしれない。
でも、記憶より深い場所に沈んだ親しさのように思えた。
(……還ってきた)
確かに、還ってきた。
縫季は碗を両手で包んだ。掌の奥まで、温もりが入ってくる。
帝辛が自分の碗にも湯を注ぐ。
しばらく、沈黙が満ちた。
穏やかな沈黙だった。
庭で、白い花が揺れている。その白さが、妙に眩しい。
帝辛が、縫季の碗にもう一杯注いだ。
「……どこにも行くな」
低い声だった。
一拍。
「何年も、待った気がする」
帝辛は少し首を傾げる。
「……なぜそう思うのか、自分でも分からぬが」
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「ようやく見つけたものを、また失くしたくない」
縫季の目が、熱くなった。
泣きそうになって、堪えた。堪えて――口元がほどけた。
帝辛が縫季を見る。
泣き顔みたいな表情だった。
その顔を見た帝辛は、少し目を細めた。
それから、ふっと口元がほどけた。
誰かを安心させるための笑みではなかった。王として整えるための顔でもない。
ただ、縫季を見つけたことで、帝辛の表情そのものが、静かに追いついたような笑みだった。
その顔に、もう無理がない。
(ああ。やっと……)
縫季は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
朝の光が、卓の端に触れている。二人の碗から、湯気が立つ。白い花が、中庭で揺れている。
縫季は、帝辛の顔を見た。
帝辛はもう視線を逸らさない。静かに、まっすぐ縫季を見ていた。
その目があまりにも穏やかで、縫季はとうとう、小さく息を漏らした。
帝辛が、ほんの少し不思議そうに眉を動かす。
「何だ」
「……やっと、捕まったなと思いまして」
帝辛は一瞬だけ目を瞬かせた。それから、口元をさらに柔らかくした。
縫季は、その顔を見て――
(……この人、手強いな)
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#ダークファンタジー
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#BL
#転生
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とふと思った。
「それは、こちらの台詞だ」
胸の奥で、温もりが静かに脈打っていた。
冷えていない。
まだ、温いままだった。
◆
灯台は、記録する。
殷王朝は、殷滅亡という固定点へ収束した。周軍が牧野に勝利し、帝辛は鹿台に火を放ち、保存された正史層は最も強い因果の流れへ合流した。
周が編纂した史書に、帝辛の名は残った。
暴虐の王として。滅びるべくして滅びた者として。
それが、保存された記録である。
────
だが灯台は、もう一つの記録を持っている。
観測されにくい領域に沈んだ、抹消されかけた資料層の記録。
その中で、帝辛は花の前に立っていた。
誰かに見せるためではなく、ただ――咲いているから、そこにいた。
その表情を、正史は知らない。周の史官は、書かなかった。書けなかった。見ていなかった。
その真実を知るのは、この線に触れた者たちだけだ。
────
灯台は裁かない。灯台は選ばない。ただ、観測する。
それでも――
この線の伝承圧は、わずかに上昇している。
誰かが語り続けている。誰かが、残らなかったものを残そうとしている。
線は、まだ死んでいない。
────
歴史は、すべてを残すわけではない。
だが、残らなかったものが存在しなかったことにはならない。
そう記された痕跡が、灯台の最深部には、まだ消えずにある。
─ 終 ─
コメント
1件
第80話、読み終えました……いやあ、もう、最初から最後まで丁寧な情感にやられました。特に帝辛が茶碗の向きを直すところ、あの“覚えていないはずの親しさ”が身体の奥に染みてる表現、めちゃくちゃ効きました。正史に残らないものが確かに存在した、という灯台の語りも世界観の厚みを感じさせてくれて、とても好きです。この関係性、まだまだ見ていたい……!