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糊で貼り付けられているんじゃないかと思えるほど重い瞼を持ち上げる。
眩しくて、すぐに閉じる。
そして、今度は眩しさを覚悟して、負けまいと開ける。
「お前、俺に襲われたいの?」
はぁ? と言いたいのに、喉の粘膜まで糊のように貼り付いていた。
「ほら、水」
なぜ匡がここにいるのか。そもそもここはどこなのか。
聞きたいことはたくさん浮かんだけれど、ひとまずゆっくりと身体を起こすと、差し出されたペットボトルを受け取った。
キャップは外されていて、そのままボトルに口をつける。
冷たい水が粘ついた粘膜を剥がしていく。
ゴクゴクという重低音が頭に響く。
ペットボトルが一気に軽くなり、私はようやくボトルから口を離した。
はぁっとひと息つく。
ペットボトルを持つ手が重く、見るとそれはもう浮腫んで指がパンパンだ。
ホント、年を感じるわ……。
「大丈夫か?」
「ん……」
匡が私の手からペットボトルを抜き取ると、キャップを閉めた。
「なんで匡がいるの?」
「お前が近藤に電話してきた時、近藤と一緒にいたんだよ」
サイドテーブルにペットボトルを置いて振り返った匡に、束の間見入る。
「髪……」
「ああ」と、匡が自分の髪を指で摘まみながら言った。
「さっき、近藤に切ってもらったんだ」
数日前の、差し込むと手が覆われるほどの長さだった髪が、半分ほどの長さになっている。
髪で半分隠れていた耳もスッキリ見えている。
「ずっと放ったらかしだったんだけどさ?」
十六年前を思い出す。
真ん中から少しずらした位置からサイドに流し、てっぺんの部分を遊ばせている。
一緒にお風呂に入った時、両手で彼の髪をわしゃわしゃと洗うのが好きだった。
「少しは若く見えるか?」
「……そうね」
素直に言葉にできた。
「若くて格好いいよ」
「千恵?」
憎まれ口を予想していたのだろう。
匡は不思議そう。
ツンと横を向いて『はいはい。すこぉし、ね』と言っても良かった。
そう言わなかったのは、やっぱり酔っているからかもしれない。
目の前の匡は間違いなく私と同じ年。私とは違う場所で、私とは違う女性と、私とは違う過ごし方をしてきた。
けれど、こうして髪を切っただけで昔に戻れる。
私は、何をしても戻れないのに……。
再会した日も、今も、私は過去の匡を今の匡に重ねてばかりだ。
「男の38はさ? まだ若いよ」
「は?」
「女の38とは、全然違う」
「なに言って――」
「――後ろ暗い過去のない、若い子がいいよ」
私も、槇ちゃんと一緒。
信じた男に裏切られた傷は、まだ完全に塞がっていない。
|瘡蓋《かさぶた》になりかけても、ほんの少し触れただけで簡単に剥がれて、また出血する。
いつどこにぶつけたかわからない青痣が何か月も消えないように、油跳ねの火傷が消えずにシミになるように、年を重ねるにつれ自然治癒力が低下しているせいで、心の傷も治らない。
けれど、痣や火傷のように、病院で処方される薬はなくて。
見ないようにしようと絆創膏を貼っても、じゅくじゅくして痒くて忘れられない。
乾かして治そうとしても、瘡蓋の上から突かれるだけで出血する。
いっそのこと放置してみたら、化膿し始める。
自分でも面倒で手に負えないこの傷のせいで、私は前を向けない。
38歳の匡を前にして、22歳の彼に見えてしまうのがいい証拠だ。
今、38の私の目の前で、確かに38の匡が眉を寄せ、眼光鋭く怒りをあらわにしているのに、ぼんやり浮かんで見えるのは22歳の匡で。
飲み会帰りに男友達に送ってもらった時、そもそも飲み会に男が来ることを言っていなかった時、彼の「好きだ」に返事をしなかった時。
彼は今も変わらない表情で静かに怒った。
決して、怒鳴ったり責め立てたりするんじゃなくて、そうしないように静かに深呼吸をして、私に謝るタイミングを与えてくれる。
けれど、当然だけれど、今の私は謝らない。
「子供を捨てるような女じゃなく、匡似の可愛い子を産んでくれる若い子がいいよ」
我ながら、下手な笑顔を見せていると思う。
それでも、言葉は本心だ。
子供を捨てた女が幸せになりました、なんて私は許せない。
匡は変わらず眉間に深い皺を刻み、今にも振り上げそうなほど強く拳を握っている。
若い頃、気持ちを引きずったまま別れて、離婚後に再会するなんてシチュエーションに酔っただけ。
私はふっと口元を緩めると、ベッドから足を下ろした。
「金があったら、子供を捨てなかったか?」
「……は?」
「仕事があったら?」
「そんなこと――」
今さら言ったって遅い。
「――捨てたくて捨てたわけじゃないんだろ?」
やっぱり眉間に皺があるのに、力強く拳を握っているのに、私を映す瞳に怒りはない。
「……っ! わかったようなこと、言わないで!!」
なだめるような、諭すような表情と口調に、カッとなった私はさっきまで頭をのせていた枕を掴んで思いっきり今日の顔に投げつけた。
今度はクリーンヒットする。
匡が、避けなかったから。
枕の端を握ったままの私は、もう一度枕を振り上げた。が、今度は手首を掴まれた。
「千恵」
「理由なんてどうだっていいのよ! 私は子供を捨てたの! 妊娠中に浮気して、生まれてからも帰って来ないような薄情な父親のところに置き去りにした! お腹を痛めて産んだ子を! 何よりも、誰よりも大事に育てた自分の子供を……っ手放し……たのよ!」
涙が溢れる。
|元カレ《匡》の前でなんて泣きたくないのに、止められない。
軽蔑すればいいと思って言ったのに、これじゃ同情して欲しがっているようだ。
優しい匡のことだ。
『そんなことない』とか『自分を責めるな』とか言って抱き締めるに決まってる。
それが嫌で、涙を見られるのも嫌で、私は枕を抱えて顔を埋めた。
正直、臭った。
昔はなかった、汗の匂いに混じるツンと鼻を刺激する酸っぱいような苦いような臭い。
匡も年を取ったのよね……。
そう思うと、少しホッとした。
意外なことに、匡は何も言わなかった。
ただじっと、そばにいた。
枕を抱き締めていても、見られているのはわかった。
そうなると、顔を上げるタイミングを見失う。
枕は既に、匡の匂いなんて気にならないほど、私の涙と鼻水でべちょべちょで、ついでにファンデーションで色付けされていると思う。
目元がヒリヒリするから顔を洗いたい。
せめて名前でも呼んでくれたら、顔を上げるのにと思った。が、呼ばれない。
昔のようにはいかないか……。
「……臭いんだけど」
「は?」
「枕、臭い」
我ながら嫌な女だ。
だが、ようやっと枕から顔を上げるきっかけができた。
ぼふっと枕を膝に落とす。
匡が盛大にため息をついた。
「化粧やら鼻水やらでぐちょぐちょにしておいて、俺の臭いなんかわかるかよ」
「匡もおやじ臭するくらい年取ったのね」
「当たり前だろ」
ハハッと笑い合うと、私は枕カバーを剥がした。
「千恵?」
「洗ってくわよ。さすがにこれは酷いから」
ついでに顔も洗おうと、カバーを持ってベッドを下りる。
「服とカバーは洗濯機入れて、シャワー浴びてこいよ」
「は? なん――」
「――着替えと目を冷やすタオル用意しておくから」
よほどひどい顔をしているのだと思った。
正直、身体も瞼も重く、声も枯れ、今すぐ眠りたいほど。
残るアルコールで思考も鈍く、私は言われるがままシャワーを浴びた。