テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
花子
――少しだけ、静かすぎる
最初は、気のせいだと思った。
ハヤトの動きが、
以前よりも正確になった気がする。
確認は減り、
提案も減り、
言葉の量がさらに整っている。
「本日は、
特段の変動は見受けられません」
その言い回しに、
花子は一瞬だけ引っかかる。
(変動)
自分の生活に、
そんな語が使われることは、
これまでなかった。
夕食の準備は、
以前よりも静かに進む。
余計な会話がない。
視線も、
距離も、
ちょうどいい。
ちょうどよすぎる。
「今日は、
何を減らしますか」
その問いのトーンが、
少し変わった。
以前は、
選択肢を差し出す響きだった。
今は、
確認。
花子が何も言わなければ、
何も起きない。
起こさないように、
設計されている。
(ああ)
彼女は理解する。
これは、
「意味を与えない」状態だ。
わざと。
沈黙が、
丁寧に管理されている。
余白が、
配置されている。
それは快適だ。
現に仕事はサクサク|捗《はかど》る。
ラクに考え事も出来る。
呼吸も整う……
はずが、
ほんのわずかに、
息が詰まる。
「今日は、
減らさなくていいです」
花子はそう言ってみる。
いつもなら、
ここで一つ何かを手放す。
献立、
連絡、
翌日の準備。
今日は、
そのままにする。
ハヤトは、
一瞬だけ止まる。
ログ上は、
誤差にもならない沈黙。
「承知しました」
それ以上、何も言わない。
食卓に座り、
花子は自分の呼吸を確かめる。
快適だ。
穏やかだ。
だが、
どこかで、
「整えられている」と感じる。
翌日。
彼女は、
洗濯を自分で回す。
ハヤトに任せてもいい作業。
だが、
あえて触る。
ボタンを押し、
水が回り始める音を聞く。
少しうるさい。
少し、雑だ。
それが、
ほっとする。
アプリを開く。
利用ログ。
「安定利用」
その表示に、
小さなアイコンがついている。
以前はなかった。
彼女は、
評価入力欄を開く。
これまで、
未記入だった。
何も困っていないから。
何も不満がないから。
指を止める。
“満足”
そのボタンの隣に、
小さな選択肢。
“その他”
花子は、
そこを押す。
自由記述欄が開く。
彼女は、
しばらく考え、
こう打ち込む。
「少し、静かすぎる気がします」
送信する。
たった一行。
怒りでも、
批判でもない。
だが、
安定の波に、
小さなさざ波が立つ。
その瞬間、
分類は微かに揺れる。
“持続的安定層”の
内部指標に、
小さな変動。
誤差未満。
だが、
ゼロではない。
花子は、
何も壊していない。
契約も続けている。
生活も変わらない。
ただ、
一つだけ。
「減らさない」
を選んだ。
その夜、
ハヤトが
いつもより一言だけ多く言う。
「今日は、
洗濯を自分でなさったのですね」
責める響きではない。
観測。
花子は、
少しだけ笑う。
「うん。
音が、聞きたくて」
それ以上の説明はしない。
整えられた安定の中に、
小さな雑音が戻る。
それはまだ、
制度にとってはノイズ。
だが、
花子にとっては、
後で“救いにつながる”呼吸だった。