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第5話 死の静寂
朝の待合室には、誰もいなかった。
椅子は並んでいる。
雑誌も置かれている。
受付の機械も動いている。
診察開始の札も出ている。
けれど、人だけがいなかった。
久世ミナトは、自動ドアの前で立ち止まった。
中から消毒液の匂いがした。
いつもなら、咳払い。
小さな話し声。
呼び出し音。
受付で保険証を出す音。
そういうものが重なっているはずだった。
だが、今は何もない。
静かすぎた。
病院の静けさは、安心のためにある。
でも、今日の静けさは違った。
人が来なくなった音だった。
綾瀬レイナがスマホを見ながら言った。
「予約キャンセル、午前だけで八割」
ミナトはうなずいた。
「宣告から何時間?」
「九時間」
「早すぎる」
「医療は速いよ」
レイナは丸い眼鏡を押し上げた。
「人は、命に関わる場所ほど、安心を求めるから」
ミナトは自動ドアをくぐった。
受付にいた森川イツキが、顔を上げた。
黄緑のカーディガン。
細い体。
受付台の端を握る指。
笑おうとして、失敗した顔。
「久世さん、綾瀬さん」
「院長は」
「診察室です」
森川は待合室を見た。
誰もいない椅子たちが、無言でこちらを向いている。
「こんなの、初めてです」
声が少し震えていた。
「電話、鳴りっぱなしでした。来ていいのか。今日は休診か。院長は大丈夫なのか。ここに行ったらKを持たされるのかって」
レイナが眉を寄せた。
「ここに来るだけで?」
「はい」
森川は唇を結んだ。
「誰も、院長が何かしたとは言わないんです。ただ、不安だからって」
不安だから。
その言葉は、どんな刃より扱いにくい。
責めていない顔で、人を遠ざける。
傷つける気はないと言いながら、生活を止める。
ミナトは診察室へ向かった。
ドアをノックする。
「どうぞ」
中にいた榊原律子は、机の前に座っていた。
五十二歳。
短く整えた髪。
淡いベージュのドクターコート。
背筋は伸びている。
けれど、こめかみに添えた指が、何度も同じ場所を押していた。
机の上には、予約表があった。
取り消しの印が並んでいる。
「お待ちしていました」
榊原は立ち上がった。
声は静かだった。
静かすぎて、疲れが奥に沈んでいるのが分かった。
ミナトは椅子に座らず、まず頭を下げた。
「配信は確認しました」
榊原はうなずいた。
「榊原律子さんに[K]を持たせます。いつもの言葉でした」
「理由は」
「ありません」
「その後、キャンセルが」
「はい」
榊原は予約表を見た。
「午前の診療は、ほぼなくなりました」
レイナが端末を出す。
「問い合わせ内容を見てもいいですか」
「森川がまとめています」
榊原は机の上の紙を渡した。
電話の記録。
予約変更。
診療延期。
匿名の苦情。
ネットの投稿。
そこには同じ言葉が何度もあった。
安全ですか。
院長は問題ありませんか。
行っても大丈夫ですか。
Kと関係ありますか。
ミナトは紙を見つめた。
誰も断定していない。
誰も責任を取る言い方はしていない。
ただ、安心できないから離れていく。
「院長は、どうしたいですか」
ミナトが聞いた。
榊原は少しだけ目を伏せた。
「診療を続けたいです」
「はい」
「けれど、来ない人に来いとは言えません」
「そうですね」
「患者さんが不安なら、他へ行く自由があります」
榊原の声は崩れなかった。
その分だけ、痛かった。
「それでも、ここでしか診られない人もいます」
机の端に、小さなメモが置かれていた。
高齢者の往診予定。
持病の定期診療。
薬の確認。
「今日来ない人の中には、本当は来た方がいい人もいるはずです」
榊原はこめかみから手を離した。
「でも、その人たちは安心を選んだ」
ミナトは、待合室の方を見た。
「安心と安全は、違います」
榊原が顔を上げる。
「安全は確認で作るものです。でも安心は、感情で決まることがあります」
「では、どうすれば」
ミナトはすぐに答えられなかった。
社長の時は、透明性で少し踏みとどまれた。
教師の時は、噂を話す場所を作った。
配信者の時は、見せる範囲を決めた。
でも、ここは医療の場所だった。
怖い人に、来てくださいとは言えない。
来ないことで命に関わる人に、自己責任とも言えない。
レイナが静かに言った。
「段階を作るしかない」
榊原がレイナを見る。
「段階?」
「来られる人は来る。怖い人は電話相談。薬だけ必要な人は受け取り方法を変える。急ぎの人は別動線。全部同じ扱いにしない」
ミナトはうなずいた。
「それと、院長一人に不安が集中しない形を作ります」
「私一人に」
「はい。今、患者さんは院長を見ています。でも本当は、医療は一人で成り立っていない」
榊原は机の上の聴診器を見た。
「スタッフまで巻き込みたくありません」
森川が、開いたままのドアの外に立っていた。
「もう巻き込まれてます」
榊原が振り向く。
森川は受付台の端ではなく、自分の指を握っていた。
「電話、私が出ています。怒鳴られるのも、不安を聞くのも、私です」
「森川さん」
「私も怖いです。でも、ここが閉まったら困る人を知ってます」
待合室の椅子が、静かに並んでいる。
森川の声は、そこに座るはずだった人たちへ向いていた。
「だから、院長だけの問題にしないでください」
榊原は何も言えなかった。
その顔に、初めて疲れ以外のものが浮かんだ。
申し訳なさ。
そして、少しの救い。
午前十時。
クリニックは公式発表を出した。
診療は継続。
希望者には電話相談。
不安がある人には別時間の案内。
持病の薬が必要な人には個別連絡。
スタッフへの嫌がらせは控えてほしい。
院内の衛生管理や診療体制については、通常通り確認済み。
文章は丁寧だった。
でも、すぐに切り取られた。
通常通り確認済み、つまり何か確認したのか。
別時間の案内、つまり通常時間は危ないのか。
電話相談、つまり来ない方がいいのか。
レイナが画面を見て、低く言った。
「どの言葉も、逆向きに使われるね」
ミナトはうなずいた。
「安心を求めている人は、安心できない理由を探す」
「安全の説明じゃ足りない」
「うん」
その時、入口の自動ドアが開いた。
一人の年配女性が入ってきた。
紫色の上着を着て、杖をついている。
ゆっくり歩くたび、床に小さな音が落ちる。
森川が立ち上がった。
「坂下さん」
女性は受付まで来て、息を整えた。
「薬が切れるからね」
森川の顔が少し明るくなる。
「お電話でも対応できましたのに」
「電話だと、顔が見えないでしょう」
坂下は待合室を見回した。
誰もいない椅子。
掲示板。
受付。
そして診察室の方。
「静かねえ」
その言葉は、責めるものではなかった。
ただ、本当に静かだと言っていた。
榊原が診察室から出てきた。
「坂下さん」
坂下は榊原の顔を見て、少し目を細めた。
「先生、寝てない顔ね」
榊原は困ったように笑った。
「少しだけ」
「だめよ。先生が倒れたら困る」
その会話に、待合室の空気が少し戻った。
人の声。
いつものやり取り。
小さな生活。
ミナトは、その一つ一つを見ていた。
信用は、大きな宣言だけでできているわけではない。
何度も顔を合わせる。
薬を出す。
話を聞く。
また来る。
そういう小さな往復でできている。
K宣告は、それを一晩で壊そうとする。
坂下が診察室へ入ると、森川が涙をこらえるように下を向いた。
「一人、来てくれました」
ミナトはうなずいた。
「大事な一人です」
しかし、昼前。
別の事件が起きた。
クリニック前に、十数人の人が集まった。
スマホを持っている。
診察を受けに来た人ではない。
見に来た人たちだった。
「ここがKの病院?」
「院長いる?」
「中、撮れる?」
森川の顔がこわばる。
レイナがすぐに入口へ向かった。
「撮影はやめてください」
「道路から撮ってるだけです」
「患者さんが映ります」
「誰もいないじゃん」
その一言に、森川が唇をかんだ。
誰もいない。
それを笑われる。
静けさまで、見せ物になる。
ミナトは入口へ出た。
集まっていた人々の視線が、彼へ向く。
「久世だ」
「本物?」
「また現場にいる」
スマホが一斉に向けられた。
ミナトは、一瞬だけ足が止まった。
自分が来ることで、現場が大きくなる。
その違和感が、胸の奥でまた動いた。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「撮影をやめてください」
「なんで?」
「患者さんやスタッフの生活が映ります」
「公道じゃん」
レイナが前に出かけたが、ミナトは手で止めた。
怒れば、映像になる。
強く言えば、切り取られる。
弱く言えば、無視される。
ミナトは入口の横に立った。
「見たいなら、僕を撮ってください」
レイナが振り向いた。
「ミナト」
「でも、患者さんを撮らないでください」
人々のスマホがミナトへ向く。
レンズが集まる。
目ではない。
なのに、目より冷たい。
「クリニックの中には、診療を必要としている人がいます。ここは娯楽の場所ではありません」
誰かが言った。
「K宣告されてるのに?」
「それでもです」
「安全なの?」
「安全を確認するための対応はしています」
「安心できない」
ミナトは、その言葉を聞いた。
安心できない。
今日、何度も見た言葉。
人は安全を説明されても、安心できないと離れていく。
安心できないと、攻撃してもいい気分になる。
「安心できないなら、距離を取ってください」
ミナトは言った。
「でも、壊さないでください」
その言葉は、群れを止めるほど強くはなかった。
それでも、何人かはスマホを下ろした。
何人かはつまらなそうに去った。
何人かは残った。
世界はいつも、少しだけ分かれる。
午後。
クリニックでは電話相談が始まった。
森川が受付で電話を受ける。
榊原は診察室で一人ずつ話す。
スタッフが記録を取る。
レイナは問い合わせ内容を分類する。
ミナトは、待合室の隅でノートを広げていた。
電話の声が聞こえる。
「行きたいけど家族に止められて」
「薬だけ欲しい」
「院長先生じゃない人に診てもらえますか」
「本当に大丈夫ですか」
「Kって感染するんですか」
感染。
その言葉が出た時、森川の手が止まった。
ミナトも顔を上げた。
Kは、物質かどうかも分からない。
それでも、人々は感染という言葉を使い始める。
分からないものを、分かる形に変えるために。
榊原は電話口で静かに言った。
「Kが医学的に感染するという確認はありません」
少し間を置く。
「不安でしたら、今日は電話でお話ししましょう。薬のことを先に確認します」
声は穏やかだった。
でも、電話を切った後、榊原はこめかみを押さえた。
「私は、何を診ているんでしょうね」
誰もすぐには答えなかった。
「体でしょうか。不安でしょうか。噂でしょうか」
ミナトはノートを閉じた。
「全部かもしれません」
榊原は、疲れた目でミナトを見る。
「医療は、信頼がないと成り立ちません」
「はい」
「でも、信頼は治療できない」
その言葉が、待合室に落ちた。
静かな言葉だった。
でも、重かった。
夕方。
坂下の診察後、少しずつ来院者が増えた。
多くはなかった。
けれど、ゼロではなくなった。
電話で相談した人が一人。
薬を受け取りに来た人が二人。
家族に付き添われた高校生が一人。
誰も大きな声を出さない。
受付で周りを見回し、椅子に座り、すぐにスマホを見る。
不安は残っている。
それでも、来た。
森川は一人ずつ、いつもより丁寧に案内した。
榊原は診察室で、いつもよりゆっくり話した。
ミナトは、それを見ていた。
安心は、一度に戻らない。
ひとり。
またひとり。
椅子に人が座るたび、待合室に少しずつ音が戻る。
呼び出し音。
紙の音。
杖の音。
小さな咳。
それらは、生きている場所の音だった。
しかし、夜になると、また画面が騒ぎ始めた。
K宣告院長のクリニック、来院者減少。
安全より安心を選ぶ市民。
久世ミナト氏、またも現場で説得。
ミナトはその見出しを見た。
また自分の名前がある。
榊原ではなく。
患者ではなく。
クリニックではなく。
久世ミナト。
レイナが隣で言った。
「見るのやめな」
「見ないと」
「全部見たら壊れる」
「見なかったら、何が起きてるか分からない」
「見ても、全部は分からない」
ミナトは返事をしなかった。
待合室の椅子には、最後の患者が座っていた。
榊原は診察室で対応している。
森川は受付で、今日のキャンセル記録をまとめていた。
誰もいなくなったわけではない。
でも、朝の静けさはまだ残っている。
ミナトのスマホが震えた。
ボスの配信通知。
本日の観察結果
レイナが息を吐いた。
「来た」
ミナトは画面を開いた。
ボスは、いつもの場所に座っていた。
顔の見えない輪郭。
加工された声。
「榊原律子さんのクリニックは、本日も診療を続けました」
コメント欄が流れる。
行った人すごい
怖い
医療でKはきつい
久世またいた
「患者は減りました」
ボスは淡々と言う。
「けれど、完全には消えませんでした」
ミナトは画面を見つめる。
「人は、安全を説明されても、安心できなければ離れます」
榊原が診察室から出てきた。
配信の声を聞いて、足を止める。
「では」
ボスの声が少しだけ低くなる。
「安心とは、誰が与えるものなのでしょう」
コメントが流れる。
医者
家族
社会
自分
分からない
「久世ミナトさん」
ミナトの指が冷える。
「あなたは今日、患者を守ったのでしょうか」
一拍。
「それとも、安心できない世界を、また一つ見せたのでしょうか」
配信が切れた。
待合室に、消毒液の匂いだけが残った。
榊原は、ゆっくり椅子に座った。
「私は、明日も開けます」
誰も何も言わなかった。
榊原は少し笑った。
「人が来なくても」
森川が受付から顔を上げた。
「私も来ます」
レイナは腕を組んだ。
「なら、明日の準備をしましょう」
ミナトはうなずいた。
けれど、胸の奥では、ボスの言葉が残っていた。
安心できない世界を、また一つ見せたのでしょうか。
自分は何をしているのか。
守っているのか。
広げているのか。
夜。
ミナトは自室に戻った。
机の上にノートを開く。
第5話。
院長。
病院の信用。
予約キャンセル。
安全より安心。
信頼とは何か。
ペンが止まる。
しばらくして、もう一行書いた。
信頼は、証明だけでは戻らない。
戻るまで、誰かがそこに通い続ける必要がある。
スマホに、榊原からメッセージが届いた。
坂下さんが、明日も来るそうです。
続けて、森川からも届いた。
予約、二件戻りました。
ミナトはその二つの通知を見つめた。
世界中の疑いに比べれば、小さい。
けれど、小さいからこそ、本物に近い気がした。
窓の外で、救急車の音が遠くを通り過ぎていく。
誰かが誰かを助けに向かっている。
その音は、まだ消えていない。
K宣告五日目。
死んだように静まり返った待合室に、明日の予約が二つだけ灯った。
コメント
1件
読ませていただきました……第5話、とても胸に響きました。 誰もいない待合室から始まる静けさが、ずしりと重かったです。坂下さんが一人来て、「先生、寝てない顔ね」と声をかける場面、あの空気が少し戻る感じが好きでした。 「安心と安全は違う」——その言葉が、ああそうかと何度も自分に返ってきました。夜、戻った二件の予約が、明日への灯火のように見えて、じんわり温かくなりました。また続きを読ませてくださいね🌷