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激しい雨の音も、はやちゃんの叫び声も、すべてが遠い世界の出来事のように白く靄がかかり、僕の意識は途絶えてしまいそうな感覚に陥った。
しかし、ふわふわとする意識の中で、不意に凍てついていた身体がかすな振動を捉え始める。
ガタガタと激しく視界が揺れる感覚。
バタン、と力強くドアが閉まる音がして、激しい雨音が急に遠くの壁の向こうへと遮断された。
ゴーッと耳元で鳴り響く、急速に作動した暖房の音。
車に常備してあった大きくて分厚い毛布が、僕の身体に隙間なくぐるぐると包み込まれていく。
ヒーターの温風とふわりと身体を覆う毛布の心地よいぬくもりで、氷みたいに冷えきっていた肌がじんわりと温められていくうちに、やっとぼんやりとした意識が引き揚げられていくのが分かった。
『救急車が来るまで、こいつをこのまま雨の中に置いておけるわけねぇだろ! 一刻も早く温めねぇと死んじまう!! 舜太、お前はここで119番して場所を伝えろ! 俺はこいつを車であたためてやるから!』
いつの間にか、僕はすぐ近くに停まっていたはやちゃんの車の助手席へと乗せられていた。
バタ
『柔太朗、ちょっと服触るな? ごめんな、冷えるから脱がせるぞ』
はやちゃんは大急ぎで運転席へと回り込んで乗り込むと、助手席の僕の方へとぐっと身を乗り出し、肌に張り付いたスーツを優しく脱がせてくれた。
でも服を脱がされ毛布で温められても、心の奥の暗闇はカタカタと震えるほどに寂しくて、怖くて。
僕は温もりを求めるようにして、おそるおそる、運転席側の方へと冷え切った片手を伸ばした。
『どうした? 柔太朗、俺ならここにいるぞ。大丈夫だからな、傍にいるから』
伸ばした手を、運転席にいるはやちゃんの大きな掌がすぐに優しく握り締めてくれる。
その手のひらのぬくもりは、いつだって僕を暗闇から救い出してくれる無償の優しさに満ちていた。
だけどどれだけ肌を温められても、僕の心の隙間にぽっかりと空いた冷たい寂しさはどうしても埋まってはくれなくて。
過去の恐怖に怯え、意識が朦朧とする頭のなかで、僕はその寂しさを埋めるように喉の奥から掠れた呼吸と一緒に自分でも気づかないうちにその名前を呟いていた。
「……しゅん、……っ、」
本能が求めて零してしまったのは、大好きなあの人の名前だった。
「しゅん……、……どこ、……っ、」
繋いだ手を無意識のうちにぎゅっと握り返して必死にその名前を呼び続ける。
その瞬間、僕の手を握っていたその掌が驚いたようにピクッと一瞬で強張るのが伝わってきた。
車内にひどく重たい、張り詰めたような静寂が流れる。
どれくらいの時間が経っただろう。
僕の手を包んでいた手のひらが、すべてを諦めたように静かに力を緩め、そっと毛布の上へと下ろされた。
それから、車のドアが少しだけ開く音と、ひどく低く震えたはやちゃんの声が響いた。
『おい、舜太。……お前がそこに座って、こいつの手を握ってやってくれ』
「え……? でも、俺……。また怖がらせてまうかもやし……それに、勇斗さんだって、っ」
『はぁ、もういいから早く乗れって!!
……そのほうが柔太朗も嬉しいに決まってんだろ。そんくらいわかれよ…』
「……、」
ドアの隙間から耳に届いたはやちゃんの言葉はどこか苦しそうで…。
目を瞑ったままの僕の心に、言いようのない切なさと申し訳なさが深く突き刺さる。
そんな二人のやり取りも、すぐに激しい雨音にかき消されて、またゆっくりと暗闇の向こう側へと遠ざかっていった。
ただ、完全に意識が沈み込んでいく直前。
はやちゃんの手が離れて冷え切ってしまった僕の右手を、今度は別の少し骨張った掌が壊れ物を扱うようにして優しく強く握ってくれた。
じわりと身体の芯まで融かしていくような、圧倒的に強くて温かい特大の愛の熱。
あぁ……僕の大好きな手だ。
だけど、もう指先の感覚すら消えかけている暗闇の中で、この体温は本当に現実なんだろうかという不安がよぎった。
もしも僕が消えゆく間際に見ている、ただの都合のいい幻だったらどうしよう。
怖い、確かめなきゃ。そう思った。
本当に彼が僕の傍にいてくれているのかを、この目で見届けて安心したかった。
僕は鉛が埋め込まれたように重たい瞼を、ありったけの力を振り絞って、ほんの少しだけ恐る恐る開いた。
だけどその視界は白くチカチカと明滅して、酷くぼやけ歪んでいた。
激しい頭痛と凍えきって感覚のない身体のせいで、もうどこにも焦点を結ぶことができない。
滲む涙の向こう、その掠れそうな世界の境界線で必死に捉えたのは、ずぶ濡れのまま顔をぐしゃぐしゃにして泣いている僕の愛するしゅんの姿だった。
……あぁ、幻じゃない。本当にしゅんだ。
だけど、僕のせいでそんなにボロボロになって泣かないで。
離れずに傍にいてくれたぬくもりに救われながらも、顔をぐしゃぐしゃにして僕を呼ぶしゅんの姿がたまらなく愛おしくて、心配で。
「泣か、ないで……っ」と、届くはずのない言葉を心の中で必死に呟きながら、僕は今度こそ、深く、深い夜の底へと堕ちていった。
目をつぶった瞬間、一筋の熱い涙が僕の頬を静かに伝って零れ落ちていくのを感じた。
遠のいていく薄暗い意識のなかで、ウーウーと遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音と、僕を呼ぶ大人たちの慌ただしい声や足音が聞こえた。
僕はそのまま、病院へと運ばれていった。
長い、長い夢を見ていた気がする。
どこか懐かしくて、でもひどく寂しい、起きた瞬間に消えてしまうような思い出せない夢。
「……んっ……、」
ふと身体が軽くなる感覚に、僕は閉じていた重い瞼をゆっくりと開いた。
視界に飛び込んできたのは、眩しいくらいに真っ白な天井だった。
規則正しく響く電子音と鼻をくすぐる特有の消毒液の匂いで、ここが病院の病室なのだとすぐに理解する。
まだぼんやりとする左手に、じんわりとした温かい体温を感じてそちらに目線をやった。
ベッドの脇にしゅんが座り、今にも泣き出しそうな顔で僕の顔をじっと見つめていた。
「……っ、じゅう、……!! 良かった、目を覚ましてくれて、ほんまに良かった……っ」
「……しゅん、……おはよ……」
喉がカラカラに乾いてひどく掠れてしまい、思うように大きな声が出ない。
「じゅう……おはよ。あ、待ってな? 今、すぐ看護師さん呼んでくるから」
そう言って、しゅんは僕の指先から自分の手を離し、椅子から立ち上がって背を向け、病室を出て行こうとした。
僕は離れていく彼の体温に急に寂しくなって、どうしても行ってほしくなくて、彼の手を必死に追いかけて握ろうとした。
だけど身体がまだ思うように上手く動かなかった。
僕の右手は空間を寂しく引っ掻いて、ベッドの上に虚しく落ちるだけだった。
あの時みたいに拒絶されたわけじゃないのに、しゅんの手が届かないことがなんだか無性に悲しくて、泣きたいわけじゃないのに涙が溢れてボロボロと枕を濡らした。
「……っ、……うぅ、……、」
僕の喉の奥から漏れた声にならない小さな泣き声に、しゅんはハッと振り返り顔色を変えて焦ったように僕の元へ駆け寄ってきた。
「じゅう!? どうしたん? どこか痛むん? ごめん、俺、何かまた……っ」
確かに頭の奥の方がズキズキと重く痛むけれど、泣いているのはそんな痛みのせいじゃない。
ただしゅんに傍にいてほしいだけなんだ。
僕は寝返りも打てないまま、首を小さく横に振った。
「……ごめんな、怖かったよなぁ。もう大丈夫やから、ごめんな……」
しゅんは僕の涙を拭うようにして、僕の手をもう一度両手で包み込むように優しく、強く握りしめてくれた。
手のひらから伝わってくる彼の圧倒的な愛の熱に、ようやく僕の心は静かに落ち着きを取り戻していく。
その時、ドアの方から視線を感じ視線を向けると、そこにはいつの間にかはやちゃんが立っていた。
まっすぐに目が合った瞬間、彼の張り詰めていた顔がほっとしたように小さく緩む。
だけど、僕の手をしゅんが握りしめている光景が視界に入ったのか、はやちゃんの笑顔が一瞬だけ、どこか寂しそうに曇ったような気がした。
『……柔太朗。目覚めたんだな。……まじで、良かった……っ。今お医者さん呼んでくるから、ちょっと待ってろよ!』
はやちゃんはいつもの明るい声を残すと、僕が何かを返す暇もないまま大急ぎで病室を離れて行った。
急に静まり返った部屋の中で、僕はただ、また自分のせいはやちゃんに無理をさせてしまったような、言いようのない申し訳なさを感じていた。
to be continued……