テラーノベル
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第1話 ……普通だ
暴走霊が、屋根から跳んだ。
黒く膨れた影が人界の路地へ落ちる。完全な人型を保った狼由来の霊獣は、短槍を返しながら一歩も退かなかった。焦りはなく、敵の輪郭を追う目だけが鋭い。
「右を塞げ」
同行者が迷わず駆ける。
その背後で、影がもう一つ膨らんだ。
二体目。屋根の陰に潜んでいたものが、同行者の死角から爪を伸ばす。
同行者が気づいた時には、遅い。
「――伏せろ」
狼が指を鳴らした。
空気が一拍、匂いを変える。同行者の眼前を薄い香が走り、幾重にも重なって防壁となった。
爪がそこへ食い込み、鈍い音を立てて止まる。香の防壁は、揺らぎもしない。
「悪い!」
「後で聞く」
狼は槍を地面へ突き立て、空いた手を横へ払った。
払われた先から、香が細い帯となって伸びる。二体の暴走霊の手足へ絡みつき、四肢をまとめて締め上げた。
動きが止まる。
「そのまま封じろ」
「――ああ!」
同行者の封じが重なり、黒い影が二つとも光の内側へ沈んだ。
「制圧完了」
狼は槍を引き、乱れた呼吸を一つ整えた。戦闘中も耳や尾が現れることはなく、人型の輪郭は最後まで揺らいでいない。
同行者は数秒、その背中を見ていた。
「……今の、俺に張ったよな」
「近い方が先だ」
「二体目、いつ気づいた」
「屋根に影が出た時点で、香が二つあった」
同行者が息を吐いた。
「気づいてたなら先に言えよ」
「言えば、お前が振り返る。振り返れば、一体目に背中を取られる」
言い方は淡々としていた。それだけに、最初から二手先まで組み立てていたことが分かる。
「……お前、本当に大したもんだな」
「任務だからな」
「毎回それで済ませるだろ」
同行者が笑っても、狼は特に誇る様子を見せなかった。ただ槍についた黒い香を払い、周囲に残った気配をもう一度確かめる。
「戻るぞ。報告が残っている」
その立ち姿には、かつて人型の手足を持て余し、衣一枚を扱うにも職員を呼んでいた頃の面影など、どこにもなかった。
*
任務後の定期確認と物資の受領先は、天灯共同医療福祉院だった。
狼にとって、この建物自体は珍しくもない。任務で香脈を痛めれば診療区画へ運ばれるし、装備の補充も報告も、ここを通らなければ始まらない。年に何度も来ている。
ただ、今日の受領棟は、いつもと違う側にあった。
渡り廊下を折れた先、共用廊下の一角に大きな扉があった。
扉の脇には、見覚えのある区画名が記されている。
人型化準備区域。
扉の前には入域を制限する香の膜が張られ、許可を持つ者以外は通れないようになっていた。その向こうから、訓練で使う香の甘い匂いが微かに流れてくる。
狼の足が、ほんの少し緩んだ。
「へえ」
隣で同行者が扉を見上げた。
「ここが、人型化準備区域か」
「入口だけだ。先は許可を持つ者しか入れない」
人由来の魂である同行者には、その許可も入域する理由もない。生前から人型で生きてきた者は、人型そのものを学び直す必要がない。
「話には聞くけどな。人型になる霊獣は、皆ここを通るんだろ」
「人型化の兆候が出た魂なら、誰でも通る。植物由来の精霊とかな」
「へえ。じゃあお前も」
「当然だ」
初めて長く人型を保てたこと。衣を自分で整えられるようになったこと。公共区画での決まりを覚え、助けが必要な時には職員を呼べるようになったこと。
簡単だったものは、一つもない。
「世話になった場所だ」
それだけ告げる声には、隠しようのない敬意があった。
「どのくらいかかるもんなんだ、あれ」
「人による」
「お前は」
「……普通だ」
狼は答え、それ以上は言わなかった。
同行者も追及しなかった。特に興味がなかったからだ。
この時は。
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コメント
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読み終わりました。第43話、いいですね。戦闘シーンのテンポがしっかりしていて、狼の「香」を使った戦い方がビジュアルに浮かびました。特に印象に残ったのは「普通だ」の一言。あの場面で、それ以上語らせない作りが巧い。人型化準備区域の前で足を緩める描写も、彼の過去を感じさせる良いアクセントでした。同行者が「この時は」と気づいていないのも、後で何かある伏線っぽくて続きが気になります。