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第5話 君を保護下に
母さんの喉が、指の中で動く。
震えてる。
柔らかい皮膚。
生きてる感触。
なのに。
もっと強く掴まなきゃいけない気がする。
掴まなきゃ。
「……っ、な……ぎ……」
僅かな息がかかる。
なんでだ。
わからない。
わからないけど、
離しちゃいけない。
離したら、だめだ。
水の音がする。
耳の奥で、何度も。
ここは家で。
水なんて、ないのに。
誰かの声が混じる。
子供の、男の子の
甲高い声。
苦しそうな、声。
誰だ?
わからない。
「な……ぎ……やめ……」
母さんの声が、現実に引き戻そうとしてくる。
でも、境界線がうまく繋がらない。
「……っ、は……」
息が詰まる。
ドアが開く音。
荒い足音。
「⎯⎯凪!」
知ってる声。
でも、認識ができない。
「…嘘、だろ」
焦っているような声色。
一瞬、力が緩む。
その隙に腕を引かれる。
「凪やめろ!!」
視界が揺れる。
手が外れる。
母さんが崩れる。
腕を掴まれ、
押さえつけられる。
「目覚ませ……!」
うるさい。なんなんだよ。
まだ、水の音が聞こえる。
ばしゃ
ばしゃ
溺れるように息ができなくなって、
視界が白くなる。
顔に触れられた瞬間。
ぶつり。
意識が途切れた。
意識が落ちたのを確認して、俺は凪から手を離した。
「……は……」
呼吸が上手くできない。
そのまま床に手をついた。
遅れて、状況が追いついてくる。
全身の力が抜ける。
振り返る。
おばさんは、その場に座り込んでいた。
首元を押さえている。
赤く、痛々しい指の跡。
荒いが、呼吸はある。
ただ、明らかに混乱していた。
「…大丈夫、でしたか?」
「…久遠くん…今の…」
掠れた声。
無理もない。
あの凪を、目の前で見たのは初めてのはずだ。
「すみません、来るのが遅くなってしまって 」
それしか言えない。
説明なんて、できるわけがない。
おばさんの視線が、床に落ちる。
無造作に開かれたアルバム。
三人の写真。
「私、見せちゃったの」
小さく、申し訳なさそうに呟く。
「口論になって、手が滑ってしまって。もっとはやく捨てるべきだったのに」
確信する。
卒業アルバムも、トリガーだ。
おばさんはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……少し、離れるわ」
顔を上げる。
「このまま凪と一緒にいたら、また…」
正しい判断だ。
「凪には…仕事で疲れたからって言っておいて。少し実家に帰るだけって」
完全なる、表向きの理由。
「……分かりました」
淡々と返す。
おばさんは、卒業アルバムに手を伸ばした。
触れて、
そっとページを閉じる。
迷った様子で、持ったまま止まる。
そして。
「これ、お願いしてもいいかしら」
差し出される。
俺はそれを受け取った。
「……預かります」
そのあとで、凪を見る。
意識はない。
呼吸だけが、かすかに上下している。
さっきのあの状態。
頭の中で、静かに整理する。
トリガーは明確。
再発の可能性も、高い。
一人にするのは論外。
だったら。
「凪も、俺が見ます」
はっきり言う。
おばさんが顔を上げる。
「今の状態で、一人にするのは無理です」
淡々と。
でも、断定的に。
「でも、久遠くんも大学があるでしょう?迷惑かけるわけには…」
「いえ。しばらく、俺の家で預かります」
おばさんは少しだけ黙る。
それから、小さく頷いた。
「じゃあ、お願いね」
凪を背負う。
思ったより軽い。
おんぶなんて、いつぶりだろう。
呼吸を確認する。
それだけで、十分だ。
そのまま、自分の家へ向かう。
鍵を開ける。
ベッドに寝かせて、
髪を整える。
静かな顔。
何も知らないような、顔。
「……」
トートバッグから、預かったアルバムを取り出す。
開いてみる。
ページを捲る。
三人の写真。
指で、彼をなぞる。
そこにいた、
かつてのその存在を確かめるように。
「……」
視線を凪に戻す。
穏やかな寝顔。
さっきまで、あんな状態だったとは思えないほどに綺麗だ。
「凪…」
外に出せば、壊れる。
あれを思い出せば、完全に壊れる。
だったら。
選択肢は一つだ。
「……外に、出さない」
これは監禁じゃない。
少なくとも、俺にとっては。
保護下に置くだけ。
遮断だ。
必要なものだけ残して、それ以外を切る。
ただ、それだけ。
アルバムを閉じる。
静かに。
もう一度、凪を見る。
そして。
低く、言った。
「なにも知らなくていいんだよ、凪は」