「えっ、見せてあげるって……ちょっと!! 河合!?」
「おいで、モカ」
この時の俺はテンションがブチ上がっていて、藤原に魔法を見せてやるんだと意気込んでいたのだ。泥で汚れているモカを小脇に抱え、目の前を流れている小川に向かって走った。
川縁に到着すると、その場で靴を脱いで裸足になる。季節は9月。気温は30度を越える日が続いており、まだまだ夏の暑さを感じさせる。裸足で川の中に入っても全く問題ない。ひんやりとして心地良いくらいだった。
藤原が訝しげな顔で俺を見ている。彼女からしたら俺の行動は意味不明……戸惑って当然だ。置いてけぼり状態になっている藤原を無視して、俺は手を振りながら呼びかけた。
「藤原、よく見ててなー!」
くるぶしが隠れる程度の深さまで川に足を浸した。水の流れ、冷たさを直接肌で感じる。
家の裏ということもあって、この小川には子供の頃からよく訪れていた。水浴びをしたり釣りをしたりと、たくさん遊ばせてもらっている。
水場には水の力を持つ幻獣がいることが多い。昔は気付くことが出来なかったけど、今の俺に分かる。彼らは間違いなくここに『居る』のだ。
瞳を閉じて深呼吸を行う。周囲の雑音を取り払い、川のせせらぎだけに耳を傾ける。さあ、『交渉』を始めよう。
『幻獣』とは超自然的な力を持つ存在の総称で、魔道士の間では『スティース』とも呼ばれている。魔道士はスティースと『契約』を結び、対価を差し出すことで、彼らの持つ固有能力……魔法を使うことができるようになるのだ。
契約と言っても主導権はスティース側にある。対価を提示したとしても、相手が承諾しなければ契約は成立しない。高位のスティースほど要求する対価も大きく、選り好みも激しい。気に入って貰えなければ契約は不成立となる。要は全てスティース次第。大切なのは対話だ。失敗することだって多々ある。それを踏まえて礼儀正しく、相手を怒らせないように……
『怜悧なる者……我が声に耳を傾け、求めに応えたまえ』
足元の水が激しく揺れている。俺の交渉にスティースが反応しているのだ。この川に住んでいるスティースはランクは下だけど、俺のことを小さい頃から知っているのでとても友好的だ。交渉にも応えてくれるし、対価も僅かしか要求してこない。
俺が立っている場所を中心に、周囲が青白い光に包まれた。それと同時に足もとに円形の模様が浮かび上がる。二重の円の中に描かれているのは幾何学模様と数字。この数字は払うべき対価の量を表している。今回はほぼゼロであるので、表示されている数値はかなり低い。
「相変わらず気前いいなぁ……よし、『契約成立』だ」
俺の言葉を合図に、体の中に何かが流れ込んでくる感覚に包まれる。これはスティースの力が体内を巡っているのだ。この小川に棲むスティースの固有能力は水を操る力。契約により、一時的にこの力を俺が使うことが許されたのだ。
モカを抱えている両手に力が集まってくる。異変に気付いたモカが震えている。俺は安心させるために頭を撫でてやる。怖いことは何もないのだから。
「大丈夫だよ、モカ」
川の水が噴き上がる。空中を漂う水はモカの方へ向かっていく。水は優しくモカの体を包み込む。抱えていた手をゆっくりと離すと、水を纏ったモカの体は中に浮かび上がった。
『洗浄』
水がモカに付着した泥と汚れを洗い流していく。毛の隙間に入り込んだ細かい砂までも丁寧に。俺がスティースと交わした契約の詳細は、水の力でモカを綺麗に洗いたい……『洗浄』の力を貸して欲しいだった。
彼らは快く応じてくれた。実は前にも同じお願いをしたことがあるので、成功する自信はかなりあった。モカはまだ慣れていないようだけど……
泥が完全に洗い流されて、モカの体はピカピカだ。洗浄が終わると、空中に浮かんでいたモカの体は静かに地上に着地させられた。魔法が発動している間、周囲を明るく照らしていた光が収まっていく。
魔法の効果が薄まると足元の魔法陣が輝きだした。力の発動が終わると、次は俺が『対価』を払う番だった。
スティースが見返りとして求めるもの……それは『ヴィータ』だ。
ヴィータというのは人間の活力や精力から成る生体エネルギーのようなもので、幻獣たちはこの力に特別な価値を見出している。そのため、魔道士は自身の体内にあるヴィータを幻獣との取り引きに利用しているのだ。優秀な魔道士ほどヴィータの扱いが上手く、量も多い。
今回モカを洗浄するために使った魔法の対価として要求されたヴィータの量は『0.3』だった。
自分の持つヴィータの総量を正確に測ったことはないけど、この少ないであろう対価で体調を崩すなどといった影響は今まで一度もない。あまりに何も感じないので、本当に対価を取られたのか疑ってしまうくらいだった。無事に魔法を発動させることができているので……まぁ、大丈夫なのだろう。
取り引きが終わると、足元の魔法陣はゆっくりと消えていく。最後に小声で力を貸してくれたスティースたちに『ありがとう』と呟いた。
周囲を照らしていた光が完全に収束すると、少し離れた所で様子を伺っていたモカが俺のもとに走り寄ってきた。モカに向かって手を差してやると、しがみつくような勢いで体によじ登ってくる。怖かったんだな。
「藤原ー!! どうだった? こんな感じなんだけど」
さて、藤原はしっかりと見ていてくれただろうか。ろくな説明もしないまま実践に入ったので驚かせてしまったかもしれない。川から上がると、藤原のいるであろう方向へ視線を向けた。
「あの、藤原……サン?」
藤原は魔道士についてあまりよく知らないと言っていた。そんな彼女に魔道士がどんなものなのか、少しでも興味を持って貰えたら嬉しい。だから、今の自分ができる精一杯の力を披露したのだった。
驚いているかもとは思ったけれど、それは俺の予想を遥かに超えたものだった。藤原は口を半開きにしたまま石像のように固まっていた。