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莉世《りせ》が勢いよく立ち上がると、スウェットワンピースの裾がふわりと揺れた。
「ね、冷蔵庫なに入ってたっけ?」とキッチンへ向かいながら振り返る姿は、どこか学生時代のままの用で、それでも指にはあの頃になかった結婚指輪が光っている。
2人が就職してからというもの、料理はできる限り一緒にするようにしていた。
片方が火を使い、片方が片付ける。
包丁は危なっかしいからという理由で基本蒼《あお》が使用するようになっていた。
忙しい日はどちらか一方が担当することもあるけど、できるだけならんでキッチンに立つのが、ふたりの小さなルールだった。
「昨日の残りのから揚げ残ってたよね、あと卵と、冷凍のブロッコリーも。」
「うんうん、それとウインナーもあるよ!たこさんウインナーにしようよ!」
「…莉世、それ大好きだよね。」
「もちろん!かわいさは正義だって!」
莉世が冷蔵庫を開けると、蒼はその横で棚からまな板を出しながら答える。
まるで何年も連れ添ったかのような自然なやりとり。でも実際はまだ結婚して4か月目である。
それでも、こうして二人ならんで作業していると、それが当たり前のように心地よかった。
「卵焼き、今日は莉世がやる!甘め?しょっぱめ?」
「じゃあ甘めにしよっかな。俺はウインナー切ってブロッコリーゆでるよ。人参もあった気がするけど入れる?」
「よし!星形に抜こう!」
「…また可愛くしてくるな。」
蒼が苦笑すると、莉世は「ピクニックだよ?見た目も大事なの!」と得意げに返した。
ふたりの作業が交差するキッチンでは、お互いの動線が不思議とぶつからない。
自然に鍋をよけたり、包丁を使う手元を確認したり。
こうした日常の呼吸は、4か月の新婚生活の中で、ゆっくりと身についてきたものだった。
「そっちは大丈夫?」
「うん!卵焼き、ハート形にするの!」
「え、そんなの出来んの?」
「YouTubeで見たの!こういうの作るだけでも気分上がるよね~」
「そうだね。なんか、ほんとにピクニックなんだって実感してきた」
蒼はゆであがったブロッコリーをざるにあげながら、ちらりと莉世の手元を見やった。
彼女の表情は真剣そのもので、フライパンの中の卵に集中している。
その横顔にふ、と笑みをこぼしながら蒼は冷蔵庫から唐揚げを取り出した。
「唐揚げ温めなおすよ。オーブンで5分くらいでいいかな?」
「うーん、揚げ直すのもめんどくさいしそうしよっか。…あ、できたー!みて、ハート!」
莉世が卵焼きをお皿に並べると、そこにはふんわり巻かれた黄色いハートがふたつ。
「ちょっと不格好だな…」と神妙な顔をする彼女に、蒼は「でもちゃんとハートだよ、すごいね莉世」と微笑んだ。
2人分のおにぎりは、それぞれが2つづつ握った。
蒼が綺麗な三角形に握るのに対して、莉世は型をつかってハート型に。
「ちょっと小さめになったし3個にしよっか?」という莉世に、「いいよ、にしてもそのおにぎりは映え担当だね」と蒼が笑う。
出来上がったお弁当をお気に入りの保冷バッグに詰めると、キッチンに残ったほんのり香ばしい香りが、何とも心地よい余韻を残していた。
「あとはお茶か。昨日の夜出してる麦茶でいい?氷入れたら冷たくなるだろうし」
「うん!莉世はお箸とおしぼりセット入れる!」
息の合った準備の流れ。自分たちでも驚くほどスムーズである。
結婚してまだ4か月。だけど、こうして家事のリズムが少しずつなじんでいくたびに、夫婦としての形が育っていく気がしていた。
玄関で靴を履いたところで、莉世がちらりと振り返る。
「ねえ、なんかさ、ピクニックって初めてじゃない?」
「そうだね。記念日じゃないけど、記憶に残る日になりそう。」
「じゃあ写真たくさん取らなきゃ!」
「先に弁当冷めちゃうよ?」
「わかってるー!」
蒼が差し出した手を、莉世は当然のように握り返す。
しっかりと、離さぬように。
そしてふたりは、家から徒歩5分の、小さな桜並木のある公園へと歩き出した。
春の風はやわらかく、ほんのり甘い香りを含んでいる。
2人が歩く道沿いには満開の桜がずらりと並んでいて、木々の間から差し込む日差しが足元に花びらの影を落としている。
「みてみて蒼くん!めっちゃ咲いてる!」
「ほんとだ、満開だね」
莉世は保冷バッグを蒼に渡し、舞い落ちてくる桜の中へと走り出した。
そんな彼女を見ながら、蒼は1年前、雨で桜が散って泣きそうな顔をしていた彼女を思い出していた。
「ねえ蒼くん早く!遅いよ!ごはん!」
お花見に来たのにごはんが優先か、と笑いながら蒼は莉世のもとに駆け寄った。
「真ん中の桜のとこベンチ空いてる!あそこで食べる!」
莉世が指さしたのは。公園の中心にあるベンチ。桜の木を囲うように丸くベンチが置いてあって、特等席のようだ。
ベンチに並んで腰かけると、どこか懐かしいような安心感がふたりをつつんだ。
知覚の子供たちが走り回る声、風に揺れる枝のざわめき。全部がちょうどよく、邪魔にならない距離で響いてくる。
「じゃあお弁当たべよっか。」
「うん!じゃじゃじゃーんっ!」
莉世が保冷バッグから、お弁当箱とお箸を取り出す。開けると、そこには2人で作った彩り豊かなおかずが綺麗に並んでいた。
「ね、写真撮って!」
「はいはい、いつものね」
蒼はスマホを取り出して、お弁当と莉世を一緒にフレームに納める。
莉世はピースサインで満面の笑みをこぼしながら、ついでに蒼にもカメラを向ける。
「はいっちーず!」
「急に言われても俺笑えないよ」
「素がいいんじゃん素が!」
何気ない、けれど大切なこの瞬間。
日常の中の”特別”を写真に収め、ふたりはお弁当に手を伸ばした。
「んー!おいしい!冷めててもサックサク!さすが!唐揚げさいこー!」
「はやっ。ほとんど反射じゃん。」
「だって唐揚げってお弁当界のエースじゃん!しかも今日はちゃんと下味染みてるし、なんかジューシーだし、とりあえずおいしいの!おかわりないかな…」
「弁当でおかわりって聞いたことないけど?」
莉世は構わず笑いながら、今度は卵焼きに手を伸ばす。
自分で見よう見まねで作った、甘いハートの卵焼き。不格好だけど、世界一綺麗に見えた。
「あー!甘め最高!生き返る!これは天才だ!」
「ん、ほんとだおいしい。これは莉世さん天才ですね」
莉世はすでにお弁当に夢中で、次から次へとおかずを味わっていく。
まるでどれも”選ばれし一品”かのように。毎度目を輝かせながら頬張る。
「ねえ蒼くん、これ全部おいしすぎて順番に迷う。最後に何残そう…」
「…俺はおにぎり最後に食べるかな。締め的な。」
「あー、確かに!米で終わると満足感すごい!でも実は莉世もう決めてるのよ」
「何食べるの?」
「卵焼き食べて、唐揚げ食べたいから蒼くんの盗んで、終わる!」
「もう俺唐揚げ食べ終わってるけど。」
ふと時が止まる。莉世の目がこれでもかというほど見開くと共に悲痛な叫びが漏れた。
「え、えー⁉ひどい!なんで⁉食べたかった!!!」
「いや、俺のだし。最初に食べる莉世が悪いんでしょ」
「うわあ…正論。いいや、家に帰ってから残りの唐揚げ食べよっと。」
残ってる唐揚げは夜用だが…と思いながらも、真剣にそう呟く莉世の横顔を蒼は見つめた。
春の風がまたそっと吹いて、桜の花びらが舞う。
莉世がその花びらに向かって手を伸ばす。一生懸命掴もうとするその手に花びらが乗ることはなく、少し不貞腐れながらも莉世はお弁当に向き直った。
「ふう、食べすぎたかな。おなかいっぱいかも。」
「まだおにぎり残ってるよ、食べないの?」
「いや、それは食べる!別腹!」
「別腹ってスイーツに使う言葉じゃなかったっけ?」
「おにぎりも心のスイーツってわけよ!」
謎理論を披露しながらも最後のおにぎりを大事そうに両手で持ち上げた莉世。
「いただきます!今日もおいしいごはん食べれて幸せ!」
もぐもぐ、という効果音が似合いすぎるほどの食べっぷりに、蒼は自然と笑顔になる。
莉世の「おいしい」は、今日もすべてを肯定してくれる魔法の言葉だ。
「あーおなかいっぱい!幸せ!今すぐ寝たい!」
おにぎりを食べ終え、幸せそうにおなかをさする莉世。ベンチの背もたれに体を預けて、けふっと息をついた。
蒼はそれに苦笑しながらも、彼女の口の端についているご飯粒をつまんで取ってやる。
「最後のおにぎにに対して別腹とか言うやつ初めて見たよ」
「いいじゃん!そんな人がひとりくらいいても!莉世は許されるのだ!」
「え、ふたりまで許されない?俺は?」
「喉乾いた!」
蒼の話もそこそこに手を伸ばして水筒を取った莉世は、冷たい麦茶を勢いよく流し込んだ。
「あー、うんまっ!これ、これよね、お弁当のシメって!」
「俺にもちょうだい。…あーわかる。しかも食べ過ぎた後とか最高。」
「冷たいお茶って最高だよね。この食道が冷えてく感じ好き。あ、もう一口。」
「いやもう全部飲み干す勢いじゃん。」
「これさ、夜ご飯いらないよね。おなかいっぱいだし。満足感がすごい」
「まだ14時だよ。もう数時間したら”おなかすいた!”って言いだすんだから。」
「勘が鋭いな蒼くん!その通りだ!」
莉世は誇らしげに胸を張って、バッグの中から小さなタッパーを取り出した。
それは、蒼に内緒で別に用意していた、”秘密のお楽しみ”だった。
「じゃじゃーん!デザート!」
「え、そんなの用意してたの?いや、なんかこそこそしてたから何してんだろうとは思ってたけど。」
中にはいちごと、りんご。どちらもふたりの好物である。
ふたりぶん、ちょうどいいバランスで。りんごは以前彼女が苦手だと言っていたうさぎの形の飾り切りにしてある。今日のために練習でもしたのだろうか、と思いながらも蒼はそれに手を伸ばした。
「もはやフルコースじゃん。うさぎのやつ頑張って切ってくれたの?」
「そう!そうなの!よく気付いた!めっちゃ頑張った!むずかった!」
「莉世飾り切り苦手だもんね。手先は器用なのにね」
そんな会話をしていると、あっという間にタッパーはからっぽ。「あれ?もうない!」と慌てる莉世を見ながら、蒼は「ほんとに食いしん坊だね」と微笑んだ。
「もう14時過ぎたし、そろそろ片付けて帰ろうか?」
「うん!またお弁当作って来たい!桜が咲いてるうちに!明日にでも!」
「いくらなんでも早すぎない?来週とかでいいでしょ」
片づけを終えてベンチを離れると、公園の真ん中にそびえる桜の大樹がまるで名残惜しそうにふたりを見送ってくれているように揺れた。
蒼は莉世の手を握って、家までの道のりを歩く。莉世と一緒に歩くようになってから、比較的歩調のゆっくりな彼女に合わせて蒼の歩調もゆっくりになっていた。のんびりと、気の向くままに、歩く。ふたりが楽しく歩くためのひとつのルールのようなものだった。
「ねえねえ蒼くん、今日のピクニックね、莉世的には”死ぬまでにやりたいこと”の中で1位だよ」
「もう1位?まだ1個目じゃん?」
「いや、最高すぎなんだよ。おなかいっぱいだし、桜綺麗だし、蒼くんとお弁当食べたし、もうぜーんぶ大満足!」
「ふふ、それはよかった。また来ようね。」
蒼が笑うと、莉世もそれにつられて笑う。この笑顔が、蒼は大好きだった。
家の角を曲がった時、莉世がぽつりとつぶやいた。
「家に帰ってから唐揚げ食べれないな。おなかいっぱい。」
「いや食べないんかい。夜食べたら?」
「確かに!唐揚げって”寝る前のスパイス”っていうし!」
「新ジャンルすぎるでしょ。」
ふたりの笑い声が、春の午後に溶けていった。
「たっだいまー!!」
玄関のドアを開けると、莉世はスニーカーを脱ぎ捨てるように勢いよく上がり込み、そのままリビングのソファへ直行した。
「あー、家って落ち着く。寝れる。」
リビングのソファに身を預け、莉世はもうすでに眠たげ。
おなかも心もいっぱいになったとき特有の安心しきった顔。いつのまに用意したのやらご丁寧に毛布までかけている。
「お弁当ほんとに美味しかったあ。いつもより豪華だったよね。」
「そりゃあ、もちろん昨日から準備してたんでしょ?」
「だって蒼くんとピクニック行きたかったんだもん!それに、蒼くんとキッチンに立つの好きだし!並んで、切って、混ぜて、味見して…あの時間がいちばん好き!」
「それ、味見するのが好きなんじゃなくて?…まあ俺も好きだけど。ああやってふたりで並んでるのが1番夫婦っぽいなって思える。」
「え、バレた?でもでも、蒼くんと料理するの好きなのはほんとだよ!!…ねえ蒼くん、これからもずっと一緒にご飯作って、一緒に食べようね。」
「もちろん。…食べ過ぎなければ。」
「それは無理!だって蒼くんと一緒にいたらいつもより2割増しでおなかすくもん!ほら、いつも笑ってるからよくおなかすく!」
「ふふ、莉世らしいね。」
ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
蒼がキッチンで片づけを始めると、ソファに寝転んでいた莉世も重たい腰を上げてキッチンに向かう。
手慣れた様子でお弁当箱を洗い、水筒をすすぎ、使ったタッパーを拭いて、協力して片付けていく。
「こういうとき、ふたりでやるとあっという間だよね。」
「だって莉世、ひとりでやってたら絶対”もういいやー”って投げ出すじゃん。」
「なぬ!バレてるのか!あ、でも今日はちゃんとしようとおもってたよ?なんか、大切にしたかったから。」
蒼は少し手を止めて、莉世の顔を見た。少しの間、沈黙が流れる。
「…今日のこと?」
「うん、最初ね、”死ぬまでにしたい100のことリスト”とか、子供っぽいかなって思った。でも、こうして1個叶えちゃったらさ、また次、次ってなっちゃって。ただの思い付きじゃなくて、ちゃんと思い出になったなって。」
「子供っぽいのが莉世だからいいんじゃない?むしろ、莉世のやりたいこと一緒にできてうれしいよ。」
「ありがと。蒼くん、大好き!」
そう言って腕にしがみついてくる莉世の頭を、蒼はやさしくなでる。
よしよし、といいながらふわりとなでられる感覚が莉世は好きだった。
「ねえねえ、次は何する?100のことリスト、まだいっぱいあるよ!」
「なにがあるんだっけ?みせて?」
「あのねえ、食べ物と場所がいっぱいだよ!食べたいものも行きたい場所もいっぱいあるから!」
「予想はしてたよ。さすが莉世だね」
そう言いながらも、蒼は微笑む。莉世がノートを広げて、カラフルなペンで書きこまれた夢のリストをふたりで見つめる。
「”カフェ巡りをする”でしょ、”世界中のスイーツ食べ比べをする”でしょ?あ、これ!”犬を飼う”!ほら、付き合ってた時からの夢だったじゃん!就職したら犬飼うって!」
「お、いいね。いま4月だし、6月くらいには飼えるんじゃない?」
「だよね!わーたのしみ!死ぬまでにしたい100のこと、次は”犬を飼う”で決定!」
「了解、隊長」
莉世はふわっと笑ってノートを閉じた。
小さな夢がひとつ叶ったノートの表紙を、大切なものを触るようにそっとなでた。
その夜、ふたりはベッドに並んで横になりながら、次の予定を立てたり、今日の唐揚げの出来を再確認したり、莉世は唐揚げを食べて幸せそうに笑ったり、
もうちょっと塩コショウ強めでもおいしいと思わない?」とか「次はレモンも欲しいね」とか、そんな他愛もない会話で静かに夜を終えていった。
そして、ふたりはまだまだ”100のこと”の最初の1項目を達成したばかりだ。
次の項目は、いつ達成されるのか。
春の始まりの柔らかな思い出とともに、ふたりの物語は、これからもっと深く、あたたかくなっていく。