テラーノベル
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(締切日は今日だというのに。青山先生からは何の連絡もない。)
美智子は席を立つと、鞄を手に取った。
(きっと、またあそこだ。)
「原稿を受け取りに行ってきます」
編集長に一声かけると、美智子は編集局をあとにした。
神田神保町にある小さな出版社に勤め始めて三年になる。何人かの作家を美智子は担当していたが、青山とは、美智子が働き始めてからの付き合いだった。
それだけに、行動も手に取るようにわかるのだ。
美智子は迷わず、すずらん通りにあるカフェ、フルールへ向かっていた。
詰まった時の青山は、フルールのカウンター席に陣取り、「園子マダム聞いてよ」などと、店主と世間話に花を咲かせる。
そんな暇があったら書いてくれ。そう何度となく口を酸っぱくしている美智子だった。
締切日に、何も連絡がないということは、青山はフルールに陣取っているということだ。
「もう、お気楽なものね」
ふうと、諦めに近い息を美智子はつき、足を早める。
しばらく歩むと、すずらん通りが見えてきた。
高下駄にマント姿のバンカラ学生たちが闊歩している。
この辺りは学校が多く、授業帰りの若者たちがたむろしている。
古書店、文具店、食堂……と、学生向けの店が立ち並んでいて、美智子にとってはいつもの風景。別段変わったこともなかった。
すると見覚えのない店が目に入ってきた。
新しくできた店なのだろうか。入り口のガラスドアには、アンティーク沙羅《さら》と書かれている。
「……古美術屋さんだわね」
神田界隈の店を紹介する小さな連載も、美智子の担当だった。
新しい店なら記事になるかもしれない。そう思い美智子は店へ向かった。
「お邪魔します……」
遠慮気味にドアを開け、美智子は店の様子を伺った。
「いらっしゃいませ」
店主らしき男の声がする。
「あの、少し見せてもらえますか?」
「ええ、どうぞ。おや!モガさんのご来店か!」
妙に人懐っこい、明るい声に美智子はためらった。
「ああ、どうかなこれなんか。ビーズ刺繍の手提げバッグ。英国貴族が使っていたものだよ」
洋装にも合うはずだと、店主らしき男は商品を差し出してくる。
その積極的な態度に面食らったが、美智子を驚かせる事が一つ……。
外国人だった。
白髪混じりの褐色の髪、青い瞳。日本人ではない男が前にいる。
「……!」
「ああ!私は横浜生まれの横浜育ち。日本語は大丈夫ですからね」
驚きから固まる美智子へ男は微笑んだ。
「あっ、そ、その……突然のことで……」
「あー、気にしないでいいよ。モガさん」
ハハハと男は笑うが美智子は気がきでない。
確かに、断髪、ワンピース姿。今流行りのモダンガールに間違われるのも仕方ない。しかし、これは、仕事の効率を上げるため。着物を卒業したのは流行りに乗っかってではないのだ。
「あの、私こういうもので……」
美智子は、鞄から名刺を取り出した。自分は職業婦人であり、目先の流行りに飛びついてるのではないと言わんばかりに。
「……おや、これは。編集者さんでしたか」
ご立派な職業でと、今度は男が驚いている。
「……少しお話を聞かせて頂いてもかまいませんか?」
「ええ、構いませんよ!喜んで!」
大げさに男は言った。
井川奎
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コメント
1件
第1話、読み終えました。大正時代の神田を舞台に、編集者の美智子さんが締切に追われる仕事の合間、ふと立ち寄った古美術店で外国人店主と出会う——この空気感、すごく好きです。「モガさん」呼ばわりにちょっとムッとしつつも名刺を差し出す美智子さんの職業婦人としての矜持と、店主の屈託のない明るさの対比が鮮やかでした。アンティーク沙羅、これから物語にどう絡んでくるのか気になります。続きが待ち遠しいです。