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第4話「海の家は夢のあと」
海の音は、どこか遠くから流れてくるテープのようだった。
本物ではない波の音。繰り返し、決まったタイミングで砂利をなでていく。
ナギは、濡れたサンダルを脱いで、素足で浜辺に立っていた。
ミント色のTシャツは、首もとだけじっとりと汗を吸っている。
肩のくせ毛が塩気をふくんで、少しだけ重たく垂れていた。
海は広かった。けれどどこまでも浅そうで、遠くの水平線はぼやけていた。
「ねぇ、ナギちゃん」
ユキコは、背後からやってきた。
砂浜には足跡がつかない。
長い髪を風が持ち上げるたび、白っぽいワンピースがふわりと浮かんで見えた。
けれど、裾はなぜか濡れたままだった。
「お腹、すいてない?」
そう言って指差したのは、小さな海の家。
赤いのれんがかかっていて、でも屋根の上には貝がらが積もっていた。
ナギはうなずいて、ふたりで店に入る。
中は、潮のにおいがしなかった。
かわりに、乾いた紙と木の匂いがした。
カウンターの奥にいたのは、男か女かもわからない人だった。
顔はうすく、目だけがぼんやりと光っていた。
「何が食べたい?」
「……なんでもいい」
ナギが答えると、皿がすうっとすべって目の前に置かれた。
その上には、見たことのない料理。
いや──たぶん、見たことはあるはずなのに、名前が思い出せなかった。
ユキコも同じ皿を受け取り、手を合わせた。
「いただきます」
ナギはスプーンを持った。
でも、それを口に運ぶ前に、ふと気づいた。
ユキコは、食べなかった。
ただ、笑っていた。
それも、ごはんの時間に笑顔でいようとする“習慣”のような、うすい微笑み。
「食べないの?」
「……うん。わたしね、味、もうあんまり覚えてないの」
「じゃあ……なんで、ここに来たの?」
ユキコは答えなかった。
かわりに、小さく首をかしげて、海のほうを見た。
「ナギちゃんの顔を見てると、わたし、少しだけ味が戻る気がするんだよ」
ナギは、その言葉の意味がよくわからなかった。
でも、そのまま黙って、スプーンを口に運んだ。
味は、たしかにあった。
でもそれは、楽しい味ではなかった。
すこししょっぱくて、ぬるくて──何かを思い出しそうで、すぐに忘れてしまいたくなるような味だった。
ナギは皿を見つめながら、そっとつぶやいた。
「ここ、本当に“今”の世界なのかな」
ユキコは、海を見たまま答えた。
「たぶん、わたしたちが来るずっと前から、ずっと夏なんだと思う」
遠くで、波の音がまた同じタイミングで繰り返された。