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33
夕闇が迫る山麓の村に、鐘の音が響いていた。明日は収穫祭だというのに、その澄んだ鐘の音さえ彼の耳には不協和音としか聞こえなかった。足元には枯れかけた蕎麦畑が広がり、乾いた土が風に巻かれている。十三になったばかりの少年、清は石段に腰を下ろしていた。肩口まで伸びた髪は埃にまみれ、作務衣の袖からは赤く腫れた腕が覗いている。
「おい、清! もっと早く運べ!」
背後から罵声が飛んだ。振り返ると、農具を担いだ男たちが汗ばんだ額で睨んでいる。村長の息子、健二が先頭に立っていた。
「こんな役立たずじゃ、祭りの準備が終わらんぞ」
笑い声がざわめいた。今日だけで十度目になる嘲弄だった。清は黙って立ち上がり、重たい桶を引きずるように運んだ。水はすでに濁っている。
この村では誰も彼の名前を呼ばない。「泥田坊」「疫病神」と蔑む言葉だけが投げつけられる。清は生まれつき青白い肌と灰色がかった瞳を持ち、それが村人たちの不安を掻き立てたのだ。母親は幼い頃に亡くなり、父は半年前に謎の病死。親族からも見放され、今は納屋の隅で藁にくるまって眠る毎日だった。
「なんで……俺だけが」
吐き捨てた呟きを聞く者はいない。夜空を見上げれば満月が顔を出し始めた。月光が庭先の祠を照らす。村人は忌み嫌う木造の古社だが、清にとって唯一心安らぐ場所だった。明日、ここでは神楽舞が奉納される。華やかな祭礼の中心から最も遠い場所が、自分の居場所だと皮肉にも理解している。
石段を降りると、道端の苔むした地蔵に何かが詰め込まれているのが見えた。紙切れだ。近づいて拾い上げると、墨で走り書きされた文字が目に入った。
「貴様の祟りを解きたければ、月が南中する刻に祠へ行け」
ぞわりと寒気が走った。脅迫状のような手触り。しかし清の指先は震えていた。恐怖ではなく興奮に。これは嘲笑を浴びせた者たちへの挑戦状ではないか? 彼はぎゅっと紙片を握りしめた。爪の間に薄墨がにじんだ。
真夜中の参道は異界のように静まり返っていた。清は納屋から抜け出した際、見張りの老人の杖を奪っている。月明かりが砂利を銀色に染める中、足早に進んだ。祠はすでに開け放たれていた。
「来たか、愚かな少年よ」
低く響く声と共に、黒衣の影が闇の中から這い出してきた。獣の息遣いのような荒い呼吸が漂う。
「お前の憎しみ……甘美なものだ」
影が蠢き、形を成そうとする。
「我は久遠の渇きを知るもの。この村が祀るは偽りの神。真の力とは闇より湧き出ずるものよ」
清の視界が歪んだ。怒りが血潮と共に沸騰する。これまで胸の奥底で澱んでいた毒が一気に噴出するのを感じた。
「教えてくれ……」彼の声は自分でも驚くほど冷徹だった。「あいつらを消す方法を」
「契約か?」影が嗤う。
「違う」清は地を蹴った。「奴隷じゃない。武器が欲しいだけだ」
祠の柱に叩きつけられた杖が砕け散る。破片が飛び散った瞬間――彼の背筋を灼熱が駆け抜けた。血管を流れる血液が沸騰し、皮膚の下で脈打つような痛みが全身を貫く。骨が軋む音が体内で反響した。
「来るがいい、我が使徒よ」
影の叫びと同時に、清の指先から紫電が迸った。それは雷撃でありながら、氷のように冷たい光を放つ。稲妻が祠の天井板を裂き、粉塵が舞い上がった。破片が空中で凍結し、水晶の欠片となって清の周りを旋回する。
「これが……魔法……」
呟く清の姿は変わっていた。髪が逆立ち、根元から漆黒に染まりつつある。目の虹彩は縦に割れ、瞳孔が蛇のように細くなっていた。彼の掌に現れたのは小さな霜の花弁。触れると煙のように溶けてゆく。
「素晴らしい!」影が歓喜に身を捩らせた。「その身に宿るは忌まれし血統。我らが契約は成立した!」
「まだだ」清は低く唸った。「力を証明させろ」
祠の外へ踏み出すと、満月が血の如く紅に染まり始めていた。村人たちが寝静まる家々に向かい、彼は静かに手を翳した。指先から放たれた霜の矢は鈍い音を立てて地面に突き刺さる。そこから樹氷のような氷柱が大地を侵食し始めた。畑の作物が瞬時に凍りつく。屋根瓦が霜で覆われる。
そして清が最も憎んだ相手――健二の屋敷へと歩を進めた時、悲鳴が夜を切り裂いた。目を向ければ、東の広場で火柱が上がる。燃え盛るのは明日の祭礼で使う飾り提灯だ。村人が駆けつけ、混乱の中で清と視線がぶつかった。
「何をする気だ! 泥田坊!」
叫んだ若者の喉元に氷塊が襲いかかる。声を失った村人の背後で炎は勢いを増し、ついに本殿の扉に火の粉が乗り移った。清の唇が吊り上がる。初めて見る己の魔法の威力に魂が震える快感だった。
「待ってくれ!」
突如、太い腕が彼の肩を掴んだ。見慣れた顔がそこにあった。いつも叱責する中年男性、茂吉だ。
「狂ってるぞ! これ以上やったら取り返しがつかなくなる! 皆殺しだ!」
清は茂吉の目を覗き込んだ。そこにあるのは恐れと、ほんの僅かな同情だった。かつて「醜い」と唾棄した同じ瞳が、今や獲物を狩る捕食者の輝きを宿している。
「殺すんじゃない」彼は優しく微笑んだ。「『浄化』するんだ。嘘と欺瞞を焼き払い、本当の姿に戻すだけさ」
瞬間、清の掌から吹雪が放射された。茂吉の叫びは瞬時に白く凍りつく。彼の体は雪花のように砕け散り、村全体を覆う氷霧が急速に広がった。
朝を迎えた時、山麓の村は氷晶の棺桶と化していた。溶けぬ氷柱は太陽の光さえ屈折させる。ただ一人、崩壊した祠跡に佇む少年の髪のみが純粋なる漆黒へと沈みきっていた。背後で蠢く影――契約を交わした悪魔が囁く。
「次の犠牲地を選べ、我が従僕よ」
清は応えず、風に乗ってきた桜の花びらを掬った。すでに葉脈が青く凍てついている。その美しさに涙する代わりに、彼は静かに踵を返した。これから訪れる新たな冬への旅立ちだ。
─── 残忍な魔法使いとして伝承される「氷縛の魔童」の誕生譚は、こうして幕を開けるのだった。
コメント
3件
おお、第1話からめちゃくちゃ重い展開で一気に引き込まれたわ…! 清、村中から「泥田坊」呼ばわりで父も死んで孤児って、もう読んでて胸がギュッてなった。でも「奴隷じゃない。武器が欲しいだけだ」って言い放つところ、ガチで痺れた。弱さを抱えながらも自分の意志で闇に手を伸ばす感じ、アンチヒーロー始まりとして完璧じゃん。 魔法の発現シーンの描写がめっちゃ解像度高くて、紫電と氷が混ざるビジュアルが脳内で映画みたいに動いた。契約した悪魔の存在も気になるし、「次の犠牲地」って台詞で終わるところがもう続き読ませる気満々でやばい。続き待ってる!🔥