海を泳ぐ魚ではなく、波間を漂うクラゲのように生きてきた。長いものには巻かれ、なるべく波風を立てず、嫌なことも仕方ないと受け入れて生きてきた。親に反抗した記憶もない。幸い僕の親は子どもを抑圧するような毒親ではなかったけれど。
だから、屋上からぶら下がった状態で恋人になると約束させられて、それからしばらくそれをなかったことにしようと彼女に抵抗したけど、あれは僕の人生の中で五本の指に入る反抗だったと断言できる。
結果、すべて徒労に終わり、僕のちっぽけな反抗心はさらに存在感を失ってしまった。
僕から別れようと言われる恐れがなくなったのに、意外なことに彼女が図に乗って僕を軽んじるようなことはなかった。
恋人だからと僕を夏梅と呼ぶようになり、僕にも呼び捨てで呼ぶように提案してきたけど、ヘタレな僕は彼女を映山紅さんとさん付けで呼ぶのが精一杯だった。
彼女はひたすら話し、僕はひたすら聞いていた。彼女はほとんど身の上話をしなかった。哲学的な話が多かったと思う。ユングやフロイト、ニーチェなどの有名な偉人たちの名前がよく登場した。僕がじっと彼女の話を聞いてられたのは、僕自身そういう話が嫌いではなかったという事情もあった。
僕らは週末も外で会って話をした。話をするだけで、めったにお金のかかる場所には行かないから、デートにお金がかからないのはいいことだ。ランチでカフェに入ったときはそれぞれ自分の食べた分だけ支払いする感じ。カフェでも彼女がひたすら話していた。でもそれがデートかと言われれば違うような気がしないでもない。
彼女はよく、好きだよとか愛してるとか僕に言わせる。彼女は言ってくれない。過去の失恋がトラウマになって、好きとか愛してるとか言うのに抵抗があるそうだ。
「そういうことは言えないが察しろ。私は誰にでもこんなにたくさん話をするわけじゃない」
「それは君がたくさん話をしてる途中に相手が怒り出して、話が長く続かなかっただけじゃないの?」
「よく分かったな。怒らずに最後まで私の話を聞いてくれたのは夏梅が二人目だ。一人目は初めてセックスしたときから一切話を聞いてくれなくなったけどな」
つまりその一人目がリクだ。リクは彼女の話など興味がなく、セックスするまではと我慢して鼻の下を伸ばしながら彼女の話を聞いていたのだろう。いや、きっと話を聞いている振りをしていただけで、頭の中ではどんなふうにセックスしてやろうかとそんなことばかり考えていたに違いない。