絶え間ない痛み。
朦朧とした意識が、だんだんとはっきりしてきた。
どこからだろう。
くぐもった悲鳴と懇願が、何度も繰り返される。
頭の中で何かが蠢く感覚と、人が焼ける臭い。
ふと、見回すと。村が燃えていた。
「やめて、やめて。あああ、ああーー!」
「これ以上、ころさないで」
「俺達が、俺達が何をしたって言うんだ!!」
何と言うことだ。
オークに村が襲われている。
私は聖堂騎士団、副団長。リズ・ロズマリアだ。
神の名において、正義を執行しなければ。
そう思って、剣を取ろうとしたが両手が塞がっている。
何を持っているのかと思って見てみれば、年若い夫婦の生首だった。
そういえば、私は全身血まみれだ。
これはどういうことだ?
「父さん、母さん。ああ……」
「ああ、神様。どうか妹をお救いください」
焼け落ちた家の壁を背に、追い詰められたように子供が祈っている。
見ればこの夫婦の首と、とてもよく似た顔立ちだ。
瞬間、脳に記憶がよぎる。
私はオーク達を引き連れて、この村を襲った。
オークは村人を殺し、犯し、その肉を村人に食わせた。
そして、あろうことか、私もそれに加担した。
罪もない夫婦の首を刎ね、子供達に突きつけて遊んでいたのだ。
神に正義を誓った私が、何故こんなことをしている?
何も思い出せない。
どうしてこうなったのだ。
これは夢だ。
私はこんなことはしない。
夢なのだ。
早く、早くあのまどろみの中に逃げなければ。
私は何かを知りながら、忘却しようとしている。
しかし、何を忘れようとしているのかも、思い出せない。
考えることを止めて、忘れてしまえば、楽になるのだろう。
それは間違いなさそうだった。
意識が朦朧とし始めた矢先。
ずきりと、左腕が痛んだ。
手首の内側が焼けるように痛い。
夫婦の首を無造作に手放す。
目の前で子供が怯えたが、不思議と気にならない。
そんなことより腕だ。
袖をずらしてみると、腕の肉が削がれ、文字になっている。
(これは、古ルクス語?)
一般には普及していない、教会に伝わる聖文字だ。
そこには『これは夢ではない』と刻まれていた。
さらに、肘の裏に『逃げるな』と刻まれている。
何だ、これは。
朦朧とする意識の中で思い出す。
これは自分でやったことだ。
左にあるということは右にもあるだろう。
右手首を見ると『胸の、奥、書け』と途切れ途切れに刻まれている。
かなり強く刻んだのか、腕が壊死しかけていた。
右の肘裏には『届けろ』とある。
懐の奥、服と肌の間に紙のようなものが挟まっていた。
汚い血で汚れた、おびただしいほどの聖文字。
そこにあるのは、私の懺悔だった。
近隣の村々で私はあらゆる罪悪を成していた。
絶望と後悔が、徐々に激しさを増しながら、殴り書かれている。
見たくもない現実を突きつけられた私は、気が狂いそうになった。
いや、もう気が狂っている。
もう何度目かわからないが、それをまた自覚したに過ぎない。
自分自身に吐き気を催しながらも、何故か私は聖文字を読み続ける。
確かに書いたはずだ。なぜないのだと。
何を書いたかも思い出せないのに、探し続ける。
「あ、あ、あっったた」
それは、酷く汚く、そして大きく書かれていた。
この惨劇の首謀者の名。
この暴動の意図。
帝都を攻める順序。
想定される戦術、武装、魔法。
漏洩している戦術と魔法。
それに対する対策。
そして、最後に。
誰か知らない人の名前。
「アーカード……? だ……れ、だ?」
わからない、わからないが。
とにかくこの男に、これを渡さねばならない。
あの屍の丘を越えて、あの罪人に渡さねばならない。
私が正気でいる時間はとても短い、この記憶もどれだけ保つか。
脳の奥で虫が蠢く。
私の記憶を操作しようとしているのだ。
忘れてなるものか、甘き忘却に身を投げてたまるものか。
考えることをやめてなるものか。
私は聖堂騎士だ。
数多の罪に塗(まみ)れ、どれだけ死と絶望を振りまいても。
それでもなお、正義の為にできることがあるはずだ。
理由はわからないが、それだけは確かなことだ。
月夜の晩。
記憶の底で、酒瓶二つがカツンと鳴った。
目の前では、私に両親を殺された兄妹が震えている。
「た、たのみ゛がある」
「これ、ここ。これを、帝都の、あーかードにに」
私は紙束を渡す。
渡すというより、押しつける。
「にげ、にに、にげろ」
「わ、わたじは、もう。もだない」
私がこの幼い兄妹にしたことを思えば、こんなことを言える義理ではない。
だが、過去に悪事を成していても、やらねばならぬことがある。
「だのむ゛む」
「アーカード、に。ごれを゛」
きっと、虫に食われた私の顔はおぞましいのだろう。
兄妹は恐怖に駆られていた。
それでも、二人は紙束を受け取り。こう言った。
「はい、女神ピトスの名の下に」
怯え、竦みながらも、力強く輝いている。
私は、私はこの瞳を知っている。
これは信仰を知る者の瞳。
窮地にあって、正しさを忘れぬ者のまなざしだ。
聖堂教会の信仰はこの村にまで届いていたのだ。
でなければ、聖文字を見て顔色を変えることもあるまい。
神よ。
感謝いたします。
兄妹を連れ、燃え上がる村を歩き。
茂みの森に近づくと、オークに何か叫ばれた。
何か怒鳴っているが、何を言っているのかわからない。
私は朦朧とした意識のまま、剣を抜き、残忍な笑みをしてみせる。
思い出せ。
拷問の愉悦を、悲鳴を心地よいと感じる心を。
己の中の邪悪を肯定しろ。
正義の為に今一時、私は悪と成るのだ。
私の顔を見たオークがにまりと笑う。
きっと、いい表情をしていたのだろう。
ああ、なんだ。そういうことか。
お前の愉しみを奪いはしないさ。
今夜は死の宴だ。
存分に痛めつけ、陵辱するがいい。
おそらく、そのようなことを言い放って、オークは去った。
これで安全だ。
さあ、お行きなさい。
私にできることはこれくらいだ。
「あうあ、ひ。ぐ、あばあ。う……だ」
虫が麻痺毒を流しているのか、口が回らなくなっている。
それでも兄妹は頷いて、森の中を走って行った。
私はこれからあらゆる悪辣を成すだろう。
痛みと、絶望の日々がやってくる。
それでも私はその中で、成すべきことを成すだろう。