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単に抱きしめるだけでこれだけ心臓が騒いでいるのに、気の利いたことが言えるはずもない。
「帰ろう」と促し、俺は若菜を連れて、足音を立てないように自分の部屋を出た。
玄関のドアをあけ、外に出て若菜を家の前まで送った後、がらんどうの部屋に横になっても、疲れているのになかなか眠れなかった。
(はぁ……)
今日は今の職場最後の日で、若菜に告白した日。
それに……原田のことも。
いろんなことが一度にあったから、気が昂っているのは自覚している。
それでも朝になって浅い眠りから覚めると、引っ越しのために予約していたレンタカーを借りに行った。
荷物を積んで家を出て、会社が借りてくれているアパートにとりあえず荷物を入れる。
次に向かった新しい職場は、建ったばかりできれいだけど、実家近くにあるレストランでずっと働いていた俺には、まるで他人の家のようによそよそしく思えた。
……異動ってこういう感じなのか。
初めて感じる寂しさや不安を覚えながら、休みまでの怒涛の一週間を乗り越えた。
慣れない生活は気の休まる暇がなく、異動後数日して若菜からもらったメッセージで、やっとあいつを気にかけられていなかったと気付いた。
申し訳なかったし、そういうところが俺の悪いところだと思うけど、本当に慣れない職場で必死だった。
若菜に自分の現状を伝え、それから一日一度は簡単なメッセージは送るようにしたけど、なかなか落ち着かない。
それでも待ちに待った休日。昼まで寝て体力を回復させた後、溜めた家事をこなして食事をし、ようやく原田に連絡する決心がついた。
「お疲れ。今日仕事終わったら電話したいんだけど、できる?」
メッセージを送信する前、一瞬見えないけど重たいなにかがズン、とのしかかった。
だけどそれを振り払うように送信してしまえば、重苦しさはゆっくり消えてなくなる。
もう後には引けないと、自分なりに腹もくくったんだろう。
ふぅ、と小さく息をついて、座っていた椅子から立ち上がった。
ふいに若菜が頭をよぎり、テーブルに置きかけたスマホを握り直した。
若菜とのチャットを開く。最後は昨日の夜送った「仕事終わった」「お疲れ」という文字で終わっていた。
その前のメッセージは若菜からで、若菜はあれから毎日短い連絡をくれる。
元々俺は用件しか連絡しない性格だから、雑談するというより若菜のメッセージに反応するだけになっているけど、それでも若菜から連絡がもらえると嬉しいし、なにより癒されていた。
これまで毎日やりとりすることなんてなかったから、付き合ったんだ、という実感も持てていることも嬉しい。
じんわりとした幸せを感じながら、若菜とのチャット画面を見て、指を動かした。
「今日は休みだから、昼まで寝た。夜原田に電話で話してみる」
送信して今度こそスマホをテーブルに置いた。
若菜はこれを見てどう思うだろう。
心配そうなあいつの顔が浮かぶ。
だからこそ、心配かけないようしっかりしないと、と自分に言い聞かせた。
(そういえば、若菜は原田に話したのかな)
若菜を家にあげてすこし話をした時、若菜も原田と話すと言っていた。
あいつのことだから……ちゃんと話しているんだろうけど……。
(異動先で慣れるのに精一杯で、そのことも忘れてた)
気が回らないというか、こういうところが俺の悪いところだろうな。
話はきっとしているだろうけど、若菜は原田の話をしてこない。
たぶん俺がいっぱいいっぱいなのを見越して、負担にならない程度の身の上話しかしなかったんだろう。
……そういうところに俺は今まで甘えていたんだろうな。
もしかして、俺はあいのそういう気遣いにも気付いてきていなかったかもしれない。
(あぁ、最低じゃん、俺)
今更ながら申し訳なさが募るが、まずは原田だ。
あいつときちんと話をしないといけないし、それ抜きで前に進むのはやっぱりナシだから。
そういういろんなものが終わったら、今度こそ若菜のことをもっと考えよう。
もっと大事にしよう。
俺にとって若菜は当たり前に大きな存在で“大事”だったけど、それって若菜に伝わってなかったんだよな。
これからは俺が変わろう。
若菜が俺に大事にされている、と実感できるくらいに。
原田にメッセージを送った後、反応を気にしていたが、既読になったのは夕方だった。
既読にはなっても、相手から返事はこない。
原田の仕事が終わると思う時間になっても、メッセージは依然としてこなかった。
(まぁ……そうかもしれないな)
俺があいつの立場なら、話なんてしたくないし……当たり前か。
そう思うと暗い気持ちになったけど、連絡はないから、話せないとまだ決まったわけでもない。
だから連絡を待った。時間が経つごとに気が重くなるし、したくないのに嫌な想像ばかり勝手に浮かんできてしまう。
肺全体が重たく沈んでしまった感じもした。
もう原田は俺に愛想つかして、二度と連絡なんてしてこない気もしていたし、連絡をくれても、あいつにとっていい話にはならないのだから、どちらにせよこの苦しさは拭えないのもわかっていた。
はぁ、と知らず知らずため息ばかり口から零れる。
ほとんど食べていないのに腹も空かないし、転がったベッドから動けなかった。
そんなふうにしていても時間は過ぎて、横目で見たスマホの時刻は午後10時29分。
メッセージが既読になってもう5時間は過ぎた。
(もう、今日は無理かもな)
連絡が来ることを諦めかけ、風呂にでも入ろうと思った時、電話が鳴った。
ビクッと、自分でも大げさなくらいに肩が跳ねる。
スマホ画面に表示されていた名前は「原田」。
見た瞬間、大きく鼓動が騒いだ。
出なきゃ、と思うのに、思うだけで反応できない。
動くより先に立ったのは“怖さ”だった。
その怖さが一気に頭のてっぺんからつま先まで駆け抜ける。
きちんと話をしなきゃと思っている。早く電話に出ないと、と思って気は急く。
これで原田との縁は切れるかもしれない。
でも、あいつは親友じゃないし、中学の同級生で会えば話すけど、環境が違うようになってまで連絡を取るほどの仲でもない。
話をすると決めてから、そう自分を納得させてきた。
コール音に呼応するように心臓の音が鳴る。
でもまだ手が動かない。
あまり覚えていないけど、原田と学生時代にふつうに話して笑った記憶が頭を掠めた気がした。
俺は若菜を好きだから、若菜を好きだと言われたり、若菜のために頑張ろうとしている原田に嫉妬したし、うとましかった。
でも……。
俺は……知っているんだ。
あいつが、いいやつだってこと。
尊敬するところもあること。
あいつを好ましいやつだと思う気持ちもあること。
だから……“仕方ない”と思っていても、原田に嫌われることが“怖い”んだ。