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燈火ほのかに揺れ動く室の内、兼正様の御姿が闇に紛れしのち、清涼院の君はなお几帳のほとりに佇み、琴の弦に触れぬ指をそっと膝に置き給う。宵の静けさに満たされたその空間は、まるで時すらも歩みを止めたかのような侘しさに包まれていたり。
そこへ、軽やかなる衣擦れの音、廊の向こうより忍び入りて、やがて襖の前に人の気配ありぬ。
「清涼院の君、ただ今、お邪魔いたしまして候。」
と、奥ゆかしく名乗り声をかけしは、兼正様の御弟にておわす義房さまなり。若き面差しには、兄を慕う情と、拭いがたき不安の色を浮かべつつ、静かに室へ入り給うた。
「先ほど、兄上が御独りにて庭の方へ出でられしと聞き及び、胸騒ぎいたしまして…。何か、御心乱るること、ございましたのでしょうか。」
その声は、ただ問い質すものにあらず、清涼院の君の顔色をもそっと伺うような柔らかき調べを帯びていた。
清涼院の君は、しばし黙し給うたのち、燈火の影に紛れし微笑を浮かべて、静かに目を伏せ給う。
清涼院の君は、義房さまの真摯なるまなざしをしばし静かに受け止め給う。燈火の影が几帳に揺らめき、ふたりの間に言の葉なき時が流れぬ。やがて、君は絹の袖を整えつつ、静かに口を開き給う。
「…何事も、なかったと申せば、偽りとなりましょう。されど、何があったと申すほどのことも、また候わず。」
その声音、ほのかに笑みを帯びながらも、どこか翳を含みたるものにて、まるで己が胸の裡を少しずつ覗かせるように響きけり。
「御兄君は、ただ夜の風にその思いを託したきと仰せでした。それが誰にも語られぬ心にてあるならば、私もまた、ただ静かに見送るのが道にてありましょう。」
一言一言を選ぶように、ゆるやかなる調べにて語り給い、つと目を伏せぬ。そのまなざしの奥には、言えぬ想いと、立ち入らぬ慎みとが、柔らかく共に息づいていた。
義房さまは、ふと何か閃きしように眉を動かし、わずかに身を乗り出して言い給う。
「清涼院さま、ご機嫌いかがでしょうか。」
その声音、先ほどの沈んだ空気を解かんとするように、やや軽やかに響きたり。されど、その問いかけは決して浅きものにあらず、君の心の深き底をそっと伺うものでありき。
清涼院の君は、しばし義房さまのまなざしを見つめ給い、やがて細く息を吐き、静かなる声にて応え給う。
「はい。今日はいつにも増して胸に沁みて。でも、不思議と涙は出てきませんの。」
「兼正さまがきっと訪れてくれると思っていたからこそ、袖が濡れるほどに涙がこぼれました。 けれど、兼正さまがいらっしゃらない夜には、涙すら流れず。
ただ静けさのなかに、想いだけが深く残るのです。」
その言の葉、まるで夜の露が葉の端を伝うがごとく淡く、されど胸奥にかすかな悲しみの影を宿しけり。
その様を見たる義房さまは、思わず声をひとつ張りて、力強く申されぬ。
「……そうでしたか。」
「もし私だったら…そんな悲しい想いは、きっとさせません。」
その声、燈火のゆらぎの中に清らかに響き、沈みし空気を切りひらくように明るさを添えたり。室内に流れる空気が、わずかに和らぎたるようにも感じられき。
「あら、それはお兄さまへのご不満ですの? 最近はよく言い争っていると聞いていますけれど。」
「それは……兄上の方に原因があるのでしょう。」
義房さまの言葉、ひとしきり真面目にて響きしが、その熱き調子とは裏腹に、少しばかり鼻息も荒く、衣の裾すら乱れ気味にて候。その姿、いと堅き性格のままに感情あらわにされしと見え、清涼院の君はふと唇を押さえて、くすくすと微かに笑み給う。
「…ふふ、それほど慌てずとも、わたくしは大丈夫にございますよ。」
と、やや戯れの響きを帯びたる声にて、言の葉を洩らし給う。頬にはほのかなる紅のさし、笑みは上品にして柔らかなり。
されば義房さま、面を赤らめて目を瞬かせ、たじろぎながらも、
「い、いや、それは…! 私はただ、兄上のことを…いや、そなたの安否が…その…」
などと、次第に言葉を結びかねてあたふたとし給う様、いと愛らしき小鹿のごとし。
几帳のかたわらにて、燈火ゆらぎ、琴の余韻はすでに遠くなれど、ふたりの間には新たなる和らぎの気が、ほのかに芽生えつつありけり。
「ものの情趣も知らなかった頃には、あの方のことがとても新鮮で魅力的に思えました。けれど、いろいろと知っていくうちに、すっかり夢から覚めたようになってしまって。」
「あのような方こそ面白い人だと思っていたことも、今ではただの戯れだったのだと感じています」
清涼院の君は、几帳のかたわらにて、そっと座を崩し給う。衣の裾を整えつつ、畳の端より足をやや外へと出し給いて、縁の向こうに朧げに霞む庭を仰ぎ見給うた。
そこには、遠目にも花を綻ばせし桜の老木が、春の夜風に微かに枝を揺らしており、その姿、まるで月の幻の中に浮かびたるかのごとし。
清涼院の君のまなざしは、まことにその桜を目の前に拝するように、ただ静かに、何かを思い出すかのように遠くを見据えておられた。
それを見たる義房さま、しばし戸口にて立ちすくみ、やがて小さきためらいを胸に忍ばせながら、君の傍らにそろりと坐し給うた。その身の動き、いと慎ましくありながら、落ち着かぬ気色がありありと面差しに表れけり。
「…今宵の花は、殊のほか静かにて候な。」
と、声を掛けしも、どこか戸惑いの混じる様子にてあり、清涼院の君は答えず、ただ微かに笑みを湛えたるまま、なお桜を見つめ給うた。
月影ほのかなる縁の間、遠く桜の梢を仰ぎて、清涼院の君は静かに微笑みを浮かべ給う。まなざしの先には、花か夢か幻か――目に映ることなき面影を追うような風情なりき。
ふと、君はぽつりと口に出し給うた。
「そういえばね、最近とても可愛らしい子に出会ったの。まるで我が子のように思えてきてしまって……。」
その言の葉に、隣に坐す義房様は、思わず首を傾げて、
「…こ、子供? にてございますか… ?」
と、やや驚きを帯びて問い返し給う。その声音、僅かに上擦りしが、決して冷やかしの色はなく、むしろ思わぬ真実に触れた驚きのごとし。
清涼院の君は、ふと目を伏せ、頬に紅を宿しつつも、どこか嬉しげなる表情にて続け給うた。
「ええ…。思いがけず賜りし命にて。世の喧騒を忘れさせてくれる存在が、いつの間にか、この胸に根を下ろしておりました。」
その語り口は、まるで春の小川のせせらぎのごとくやわらかく、花の香のなかに溶け込みぬ。
義房さまは、その姿をそっと見つめながら、胸中に温かき灯のともるを感じられぬ。
(…清涼院さまにも、こうして笑みを絶やさず語られるお方があったとは…。)
その想い、言の葉にはせぬれど、心の底にぽっと広がるは、まことに穏やかなる悦びなりき。
清涼院の君の語りし「小さき者」との言の葉は、義房様の心に波を立てぬ。面持ちにいと微かな驚きと喜びの色を浮かべ、思わず身を乗り出して問いたまう。
「それほどに、そなたが慈しまれる御方とは…。いかなるお子にてございまする? 男君にて候か、それとも…?」
その声音、まことに真っ直ぐにして、童のごとき素直さを宿しおりき。まなざしは輝きを帯び、次に来る言葉を待たずにはおられぬ風情なり。
清涼院の君は、頬にかすかな紅を浮かべながら、桜を仰ぎたるまま、微笑をたたえ給う。
「女にてございます。まだ言の葉もたどたどしゅう、歩く足もふらつくばかりにて――けれど、目に映るものを手にとっては、まるで世のすべてが初めてであるかのように、瞳を輝かせます。」
その語り口はやわらかく、花びらのごとく一語ごとに温もりが宿るものなり。
義房さまは思わず息をのみ、目を細めて微かに笑み給う。
「…まことに、清涼院さまが、かく多くを語られるとは…。その御子が、いかほど大切にされているか、よく伝わりまする。」
その胸のうち、あたたかな灯がぽっと灯るように覚えられけり。ふたりの間に流るる夜風は、春の香を運びながら、まるでその少女の気配までも連れてきたかのように、やさしく吹き渡りぬ。
「またお会いしに行きますね。お約束ですから。 まだお名前をうかがっておりませんでしたので、次にお会いしたときには、義房さまにもぜひお伝えしましょう。」
「ええ、楽しみにしております。」
春の夕暮れ、花ほころぶ木立のもとに、清涼院の君はそっと立ち給う。絹の衣の裾、ほのかなる風にたなびきて、その姿はまことに花の精のごとくなりき。
君は、咲き初めの花を背に、やわらかく微笑み給えば、その面差しに映る灯は、移ろう花よりも儚く、されど、確かに心を結ぶ光なりき。
義房様は、その様を見て、ふと息を呑み給う。言の葉もなく、ただ見入り給うまま、胸のうちにあたたかきもの満ちゆきぬ。
(…花は咲くもの。されど、咲く人をこうまで美しきと思うは、初めてのことにてあろうか。)
風の中に舞う花びらと共に、微笑むその姿は、ただ一幅の絵に収まることなき、生きたる奇跡のように思われたり。