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奈良は自分が置かれている立場を瞬時に感じ取った。
これが田中の言った「覚悟しておけよ」という言葉の意味か。
ただの二股恋愛だと高を括っていたが、瑠璃への不誠実な態度が露呈し、自身の信用が地に堕ちたのだと理解した。
(これが……現実)
フロアの出入り口からの一歩が踏み出せずにたじろいでいると、一番近いデスクの男性社員が「久しぶり」と張り付いた笑顔で肩を叩いた。
何もかもが違和感で構築された世界だった。
奈良はぎこちない動きでダンボール箱を床に置き、黒木のワークデスクの前に立った。
これまでは厳しいが尊敬する上司だった相手が、今は元恋人の婚約者だという。
呼吸が乱れる。
その一言目を口にする事すら難しかった。
「く、くろ、黒木係長」
「はい」
「只今、戻りました」
「はい」
この目の奥では何を考えているのだろう。
二年の間、長きに亘って瑠璃を弄んだ男と蔑まれているのだろうか、それとも心底憎まれているのだろうか。
足元から崩れ落ちそうな気さえする。
「富山支店では色々と失敗が重なったようだが、社の信用と損失に繋がるような行動は慎んで下さい」
「は、はい」
これは異動直前の保険営業での不始末を正されているのだと頭で理解していても、それ等はまるで瑠璃と佐川さなの事を咎められているような気さえして来る。
耐えられない。
この場所から逃げ出したい。
「あと、奈良くんの席は窓際の一番奥だから」
「は、はい」
(窓側!? 窓側の一番奥と言ったら……)
奈良は信じられない表情で呆然とした。
そこには暗い表情の瑠璃がノートパソコンに視線を落とし、その周囲の社員の目は冷たかった。
そのスチールデスクまで如何やってダンボール箱を持ち、歩き、辿りついたのかすら定かではない。
「きょ、今日からよろしくお願いします」
以前ならば「よろしく頼むわ!」と軽口が叩けたものが、それも憚れた。
向かいに座る瑠璃の顔を見ないようにファイルや資料の冊子、ノートパソコンをダンボールの箱から取り出した。
思わず手が滑りメモ帳やボールペンを落としてしまい、隣の女性社員が拾ってくれたが、無言で目を合わせてはくれなかった。
(これじゃ、いじめじゃねぇか)
心の中で悪態を吐きながらも、奈良は孤立感に気が遠くなりそうだった。
瑠璃の目の前に座る元恋人の表情は暗かった。いや、怯えていた。
瑠璃や黒木は営業部のグループLINEに登録しておらず状況を把握していないが、フロア全体の雰囲気と寿の情報によれば、奈良への意識はなかなか手厳しいものがあるという。
それって、いじめじゃないの
既読
それっぽいんだけどね
既読
可哀想じゃない
既読
あんた、それ本気で言ってるの!?
既読
営業部の同僚たちは奈良の瑠璃に対しての不誠実さに立腹し、また、黒木と瑠璃の交際に悪影響を及ぼさないかと懸念している。
また、奈良は二年間金沢市から離れており営業先の顧客は皆無に近く、このままでは今月の営業成績は最下位に違いなかった。
しばらくの繋ぎとして満期の契約先に保険更新の営業を試みようと、担当社員に満期保険契約先のリストが無いか声を掛けた。
「すみません、満期の保険契約先のリストは無いでしょうか」
「あぁ、はい」
手渡されたのは数件のみ。
これでは今日一日あれば回れてしまう数だ。
「これだけですか?」
「はい」
男性社員はノートパソコンから目を上げずにキーボードを叩き、コピーした満期保険契約先リストを隣に立っていた女性社員に笑顔で手渡した。
「ちょ」
「なんですか」
「それって」
「忙しいんです。用が終わったら席に戻って下さい」
その様子を眺めていた黒木は眉間に皺を寄せたが、部署内の社員たちの心情もよく分かっていた。
それだけに如何、声を掛けて良いものか考えあぐねた。
「営業、行ってきます」
「気を付けて」
「はい」
外回りの営業に出向く奈良の言葉に返事をしたのは黒木ただ一人だけだった。
以前の気迫もなく奈良は力無くフロアから姿を消した。
その後ろ姿を見送る瑠璃の表情は戸惑いを隠せず、寿はそんな瑠璃の横顔を真剣な目で眺めていた。
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