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翌日の夕方、私は街にいた。
二時間ほど前に祥平から電話があって、急に食事に出ることになったから。
休日に外食することはたまにあるが、いつも家の近所。
ファミレスかお安めの回転ずし、うどん屋やそば屋、ラーメン屋。
別に不満はない。
部下から美味しいと人気のイタリアンバルを教えてもらった時、その部下とじゃなくて妻《わたし》と行こうと思ってくれた気持ちが、嬉しい。
結婚する前、付き合い始めの頃のように、鼓動が軽やかに弾む。
きっかけが史子と美佳の不倫なのはさておき、祥平との夫婦仲が変化、というか以前のような異性であることを意識した関係に戻っていることが、すごく嬉しい。
Tシャツをブラウスに、デニムのワイドパンツをスカートに、スニーカーをパンプスに履き替えた私は、待ち合わせの時間まで少しショッピングモールを見て歩いた。
もうすぐ、祥平の誕生日。
最近は、好物を作って少しいいお酒を買って「おめでとう」を言うだけだった。
が、今年は、というか今の私はなにか形のある物をプレゼントしたかった。
持ち物にこだわらない祥平が、大喜びこそしなくても、持ち歩いたり使ってもいいと思う物。
ネクタイやカフス、バッグなんかはパス。
仕事で使う物、着る物は消耗品だからと、他の何よりもこだわらないからな……。
財布はどうだろう。
今使ってるの、結婚する直前の誕生日にあげたものよね。
そろそろ替え時かもしれない。
ショーケースに並ぶ腕時計が目に留まった。が、足は止めない。
この前、スマートウォッチに変えたばっかりだし。
やっぱり財布だろう。
そう決めて、モール内でメンズ用の財布を見て歩く。
昔はポイントカードでパンパンだった財布も、今はアプリになったから随分薄くなった。
革だから伸びちゃって、今はしわしわ感があるんだよなぁ。
そんなことを考えながら、モールを出て待ち合わせの場所に向かう。
交差点で信号待ちしていると、渡った先のビルの前に祥平を見つけた。
スマホを見ていて私には気づかない。
バッグの中でヴヴッとスマホが震えた。
祥平からのメッセージ。
〈ついてるよ〉
懐かしくなった。
付き合っている時も、先に待ち合わせの場所に来るとこうしてメッセージをくれた。
そっけない、五文字。
私がメッセージを返すと、祥平が顔を上げた。
〈見つけて〉
祥平がきょろっと辺りを見回していると、信号が変わった。
信号のメロディーで交差点を見た夫が、私を見つける。
「ママ!」
声と共に、小さな男の子が私の横を走り過ぎていく。
ママ、と呼ばれた女性は赤ん坊を胸に抱いていて、男の子の声に振り返ると手を差し出した。
「早くおいで」
男の子とママの手が繋がれて、私が顔を上げると、祥平もまた母子を見ていた。
目を細め、わずかに口角を上げる。
「お疲れ!」
笑顔で言うと、祥平も笑った。
「お疲れ。急でごめんな」
「ううん」
「行こう」
祥平の手が私の手を握り、互いの指が絡まる。
子供が欲しかった。
でも、できなかった。
今も、辛くないわけじゃない。
けれど、以前ほどじゃない。
祥平《あなた》が手を繋いでくれるから――。
「平日のこの時間て久しぶりに外に出たけど、やっぱり人が多いね」
「帰宅ラッシュの時間だからな」
「祥平も毎日この人ごみの中、電車に乗ってるんだよね」
「なに言ってんの。詩乃だって前は一緒の会社だったんだから、同じだろ?」
祥平がグッと私の手を強く握り、笑う。
「もう、十年も前だよ? 忘れたよ。それに、私が働いてた頃より人が多い気がする」
「なに、急に年寄りみたいになってんの」
本当に、随分昔のことのように思える。
新卒で入社して、必死で働いた。
最初はお金がなくて、今のマンションよりもっと遠くのアパートに住んでいて、通勤だけでもくたくただった。
三年して、祥平が入社してきて、さらに三年して付き合い始めた頃、やっと引っ越した。
私より会社から遠い場所に住んでいた祥平が、私の部屋に入り浸るようになったのは当然の流れだった。
「昔、俺たちが住んでた場所を考えたら、全然楽」
祥平が言った。やっぱり、笑って。
同じことを考えていたと思うと、また嬉しくなった。
「とはいえ、バルは駅とは反対方向だから、帰りがきついかな」
手を引かれるがままに歩いていて気にしなかったけれど、確かにJRの駅とは反対方向に向かっている。
「遠いの?」
「そうでもないけど、飲んだ後はな? ま、そしたらタクシー使うか」
「祥平のお小遣いで?」
「えぇ~……。じゃ、歩く」
「割り勘なら?」
「冗談だよ。タクシー代くらい出すから、気にしないで飲んでいいよ」
繋いだ手をぶんっと大きく揺さぶられる。
「あ、でも、寝るのは勘弁な」
「タクシー乗り場が近いし、おんぶして――」
シティホテルのすぐ前にタクシー乗り場があり、私はそこを見ながら言った。
そして、今まさに客を乗せて走り出したタクシーの後方、ちょうどホテルの正面玄関に停車したタクシーから降りてきた男女を見て、言葉を失った。
「詩乃?」
男女は真っ直ぐホテルに入って行く。
見間違い……?
違う。
女性は間違いなく、史子。
そして、男性は――。