ソファーには私が。そして目の前には床に膝をついた状態でカーネが座っている。『このまま咥——』なんて考えを咳払いで打ち消し、私は出来るだけ平然とした声で、「じゃあ、お願いします」と言って軽く頭を下げた。
「はい。お任せ下さい」
腕捲りをし、カーネが私の履いている靴と靴下を脱がせ、自分の膝の上に私の足を乗せる。素手で足を持ち上げられ、咄嗟に鼻の下を指先でそっと押さえながら瞬時に浄化魔法を自分の足に施した。鼻血が出てやしないかと心配だったのだが、どうやらまだ大丈夫そうだ。
「まずは右足からやってみようかと」
「了解です。僕の足は重く無いですか?」
「大丈夫ですよ」
拙いながらも、カーネが想像だけでマッサージを開始してくれる。だが、どういった行為であるのかを何となく知っている程度なのだろう。力が足りないのも相まって、ただ肌を撫でているだけにも近い。だけど、それだけでも充分過ぎる程に気持ちが良い。『カーネが触れているという事実だけで抜ける!』と、変な思考ばかりが頭の中に浮かんでは、下腹部に積もっていく。
軽く前屈み気味になり、服と手でそっと前を隠す。だがカーネは私の足に集中していて、こちらの非常事態には全然気が付いていないみたいで良かった。
「血流を意識して肌を撫でると良いですよ」
「こう、ですか?」
「はい。お上手ですね」
「ありがとうございます」
控えめな、はにかんだ笑顔をカーネが浮かべている。皆々から愛されていた“聖女・カルム”であった頃では見られなかった表情だ。だからと言って、『彼女と違う』だ『コレじゃない』だなんて微塵も感じない。愛おしい魂が元々持っている新たな一面が見れる事に対しての喜びで、胸の奥がじわりと温かくなった。
「爪の根本部分を指で挟んでぎゅっと押し込むと、疲れが取れやすくもなります」
「こんな感じですか?」
「んーもう少し力を入れられますか?」と訊くと、即座にぎゅっと力強く押してくれる。だが元々が貧弱な体なせいかそれ程変化は感じられなかったが、それさえも可愛らしい。必死に力を入れようとして手がプルプルと震えている。
「ありがとうございます。とても気持ちいいですよ」
「そうですか?良かったです!」
ぱっと花咲く様な笑みを浮かべてくれた。さっきとはまた違う表情だ。頑張った甲斐があったと思っていそうな顔でもある。
(全てが全て、愛おしい——)
おかげで体に溜まっていた変な熱がすっと引いてくれる。この分なら、カーネの貞操を、私から守れそうだ。
「他には、手を組むみたいに、僕の足の指の間に貴女の手の指を入れたりすると足の疲れが取れます」
「シスさんは本当に詳しいんですね」
「昔ちょっと興味があって、勉強してみた時期があったんですよ」
感心声で言われてちょっと照れてしまった。“カルム”に少しでも長く、多く触れていたいが為に得たスキルだったのだが、覚えておいて本当に良かった。
気分が高揚し、心が躍る。肌に触れてくれているからというのも加味されて、私はうっかり狼の尖った獣耳と尻尾をゆるりと解放してしまった。リラックスした顔をし、ソファーの背もたれに背中を預ける。するとひどく驚いた顔をしているカーネと目が合った。
(——マズイ、油断した!)
そう思わせる表情をし、私は慌てて頭から生えている獣耳を手で隠した。 だがもう遅い。手で覆おうが両耳は確実にカーネの視界に入り、大きな尻尾は背中からはみ出ていて全然隠し切れていない。
さぁどうする。
カーネに怖がられては元も子もないが、彼女はその生い立ち的にヒト族を嫌っている可能性が高い。そうなると、ルーナ族との方が親和性が高いと考えてくれるんじゃないだろうか。ララとのやり取りを見るに動物は好きみたいだし、きっとこの『僕』の事も——
何パターンもの問答が頭の中を駆け巡り、全てに対して対応策を練る。さて、何と言ってこの状況を受け入れさせようか。
表面上だけで焦り、動揺して固まっているふうにしていると、カーネが思いもよらぬ一声を口にした。
「——実は私、この国の出身なんです!」
ぱっと私の足を床に置き、そっと両手で膝に触れる。
「……?」
想定外の言葉に返事がすぐに浮かばない。
「今はその、婚約者から逃げている所で、此処に居ると知られると、とても困るんです。だから秘密にしてもらえませんか?……私も、シスさんが獣人族だって事を秘密にしますから」
「交換条件という、やつですか?」
「そうです。絶対に私の居所を知られてはいけないので、情報的には等価ではないかと思うんですが……如何でしょうか」
ゆっくり獣耳から手を下ろし、私はカーネの手を両手に取った。
「……その婚約者からは、何故逃げているんですか?」
彼女が逃げるというのなら追えばいい。その考えで今此処に自分は居るが、“ティアン”と名付けられた器に戻ったカーネが婚約者から逃げた理由は知りたい。訊くならもう、今しかないだろう。
「嫌い、とか?」と訊くと、カーネは「いいえ!」と言って首を横に振った。
「私は彼を嫌いではないんですけど、その……婚約者に……“今の私”は、とても嫌われているんです。嫌いな相手と結婚なんかさせるのが嫌なので、勢い余って屋敷から逃げちゃったんです」
切そうな瞳を眼鏡の奥で揺らし、カーネが無理矢理笑顔を浮かべている。“メンシス”の事を考えてそんな瞳をしてくれているのだと思うと、胸の奥がぎゅっと掴まれ、ゾクッと全身が震えた。
必死に喜びを身の内に隠し、私も少し寂しげな表情を顔に浮かべる。今はとにかく彼女の感情に共感しておかねば。
「そうだったんですね」
「秘密に、してくれますか?」
「もちろんです。なので貴女も、僕の秘密を黙っていてくれますか?」
「はい」と短く答え、カーネがゆっくり頷く。
「でも、あの……外国から来たのかという話に便乗し、嘘をついてしまって本当にすみませんでした」
「いえいえ。初対面の相手だと、何処まで信用していいのか不安でしたでしょうからね。そのくらい警戒心が強い方が良いですから、少しも気にしていませんよ」
「ありがとうございます」
そう言って、同時に笑みを浮かべる。カーネが“私”から逃げた理由も知る事が出来たし、私がルーナ族である事を難なく受け入れて貰えて本当に良かった。
「……今更ですが、僕が怖かったりはしませんか?」
耳を伏せ、そっと訊く。するとカーネはふわりとした笑顔を浮かべ、「いいえ。獣人族の方を初めて見たので驚きはしましたけど。『怖い』というよりはむしろ……『可愛いなー』なんて、ちょっと思っちゃいました」と言ってくれた。
——あぁ、彼女を愛していて本当に良かった。