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ソラマリアが茶色の丘を駆け下りるとようやく事情が分かる。黒い靄の正体は蜂だった。耳障りな羽音を立ててユカリや戦士たちに襲い掛かっている。ユカリは杖から風を吹き出して抵抗しているが、戦士たちはなすすべもない様子だ。
そのユカリがソラマリアに気づくと、今度は北東方向を指さした。使い魔を止めれば、その凶暴な蜂も止められるということだ。申し訳なく思わなかった訳ではないが、ソラマリアは蜂に苦しめられる者たちを捨て置いて、その思いを力に変えて北東へと全力で走る。強烈な甘い匂いは枯れた野原に途切れることなく続いていた。蜂を操る魔術に関係しているのだろう。
暫くして姿を見つける。あまり足は速くない。ソラマリアの倍はあろうかという背丈の女で、少し背が曲がっている。蝶のような巨大な翅が生えているが飛ぶことは出来ないらしく、外套のように垂らしていた。数匹の蜂が飛んでくるが、ソラマリアは相手をせずに足で置き去りにし、人並みの速さに過ぎない使い魔に追いつくと力任せに引き倒す。そして枯れ木のような八本の腕の抵抗を掻い潜り、封印を力づくで剥がし取った。あとに残された乾いた白樺の丸太に再び貼り付け、ユカリたちを襲う蜂を鎮めるように【命令】を下す。
結局他に使い魔はいなかった。少なくともユカリの気配の探知範囲内には。
ソラマリアたちは要塞へと帰還し、少なからず皆に衝撃を与えた。二枚の封印のどちらもソラマリアが手に入れたからだ。蜂に痛めつけられた戦士たちはラーガに顔向けできない様子で医務室へと駆け込み、ソラマリアは要塞内広場で賞賛を浴びた。
「さすがソラマリア! やっぱりレモニカはやめて私の騎士にならない?」とリューデシアに誘われる。
レモニカがソラマリアに変身したことは既に忘れているかのように。
するとレモニカよりも先にラーガが反論する。「誘ったのは俺が先だ! 横取りするな!」
「横取りはお兄さまもです! ソラマリアはわたくしの騎士ですわ!」とレモニカが抗議する。
ソラマリアは言い争いには参加せず、捕らえた使い魔の尋問のために、平素使っている部屋へと急いだ。ユカリは少し蜂に刺されたらしく、その傷跡を目ざとく見つけたレモニカによって医務室へと連行された。
「私の誘いは本気だよ!」というリューデシアの声が耳に残る。
窓の無い殺風景な部屋では既にベルニージュが待ち受けていた。
「護る者と飼う者だね」
ソラマリアが手に入れた封印の絵柄を一目見ただけでベルニージュは言い当てたのだった。五芒星の形の札に片刃の剣を握った亀の描かれているのが護る者、五枚花弁の花の形の、蜂と蜂の巣が描かれている札が飼う者だ。
用意されていた丸太に同時に貼り付け、あらゆる抵抗を想定して作られた手順の通りに【命令】し、二人の使い魔を無力化する。戦った時とは違い、護る者は同じ全身鎧ながら細身の姿になった。一方飼う者は逃げた時と同様の本性の姿、怪物めいた巨女に変身した。
そして四人はあらかじめ用意されていた椅子に座り、まるで歓談でもするように向かい合う。
「まずはそれぞれユカリ派かかわる者派かそれ以外か教えてもらえる?」とベルニージュが促す。
「俺はかわる者派だ。ただ、あいつの考えに共感している訳ではないぜ?」と護る者が先に言った。「個人的にああいう危なっかしい奴は見てられなくてな。つい護っちまう。そういう性なんだ」
「お前は?」とソラマリアが飼う者を促したのは護る者に続いて直ぐに口を開かなかったからだ。
怪物のような姿に比べて、顔は慈母めいた優し気な造りをしている飼う者は問いには答えず逆に問いかける。
「どうして正直に話すように【命令】しないのですか?」
猜疑心に満ちた目で見つめられたベルニージュは答える。「ワタシたちの身を守るため、あなたたちを逃がさないための最低限の命令しかしないのは、【命令】によって苦しめられてきたあなたたちを出来る限り傷つけないための配慮だよ。もちろん原則は原則でしかないけど」
飼う者はその答えを検討するように暫く黙考した後、改めて口を開く。
「そうですか。では、質問に答えましょう。私は、言うなれば自立派です。ユカリさんにもかわる者さんにも与するつもりはありませんし、興味がありません。今回の偵察任務は救済機構の命令によるものです。そういう訳で、この方とは……」と言って護る者を顎で指す。「無関係です。ユカリさんと大王国の戦士たちに対する攻撃もまた命令下の自己防衛ですが、仮に自由だったとしても同じようにしたとは思います」
ソラマリアが護る者に目を向けると観念したようにさっき答えていない内容を自白する。
「ああ、俺があんたと戦ったのはお察しの通り時間稼ぎだ。もう一人、かわる者派がいた。こちらもただの偵察任務だがな」
「レモニカ様を殺そうとした使い魔のことは?」とソラマリアが殺す者とその命令者についての質問を重ねる。
しかし二人とも知らないとのことだった。
「命に関わることでしょう? 【命令】しないの?」と飼う者が疑念を呈する。
「ああ、もうしたんだ。下手人自身に」とソラマリアが答える。「ただ【命令】したとしても認識の齟齬があれば、つまり知らなければ嘘をつくことができる。そのすり合わせだ」
「どちらもレモニカを優先して狙う動機は薄いしね」とベルニージュが付け加える。「やっぱり大王国かもね。ラーガ殿下じゃなくともレモニカの台頭を危ぶむ者がいてもおかしくないんじゃない?」
「レモニカ様が台頭?」
ソラマリアにとっては中々奇妙な響きに聞こえたのだった。兎が獅子を喰らうのではないか、と危ぶむようなものだ。
長らく乳母兼教育係のようなことをしていたのはソラマリアで、政治的な争いの中心にはとても関われない立場だった。でなければ知られざる城に赤子の頃から幽閉されるはずもない。それが選択肢の中ではましな部類だったのだ。確かに大王とヴェガネラ王妃の血筋であり、有力な存在であることは確かだが、レモニカを政敵と捉える者は想像し難かった。しかしベルニージュの言う通り、今のところ他に考えられる可能性は無い。
そんな場所へレモニカを連れ戻そうとしているのだ、ということをソラマリアは改めて実感する。少なくとも小さな籠の中に獅子はいない、今まではそう思っていた。
まだリューデシアの方が上手く立ち回れるかもしれない、とさえ思える。記憶は薄いらしいが、救済機構の内にも政治はあり、その頂点に君臨していたのだから。
「じゃあ結局何も分からなかったってことだね」とリューデシアに指摘される。
倒れた机は元通りになり、ぶちまけられた紅茶と茶菓子はすっかり片づけられ、初めから誰も手を付けていなかったかのように全く同じものが用意されていた。暖炉の熱は石の部屋の隅々まで十分に行き渡り、冷気の代わりに眠気が天井の辺りを漂って様子を窺っている。
「そうですね。依然として機構の差し金である可能性も否めません」
「ねえ、せめて二人きりの時は護女時代と同じ言葉遣いにしてくれない? くすぐったくて仕方ないんだよね」とリューデシアは昔のようにねだる。
「ええ、まあ、構わないが」とソラマリアはしどろもどろに言葉を紡ぐ。
「で、大王国の誰かの陰謀って可能性もある、と」リューデシアはすぐに切り替える。「ってことは私も容疑者か」
「別に疑ってはいない。そもそもレモニカ様を排除したところで立場は変わらないだろう」
「それもそうだね。じゃあ手を組もうよ。私とレモニカ、それにソラマリア。せっかく三姉妹になったことだし。このままじゃ兄上に良いように利用されるだけだよ」
「私が決められることではないな。レモニカ様がそれを望むならそうするだけだ」
その時、問い質すようにきつく扉が叩かれる。レモニカだ。今はモディーハンナの姿だ。
「ここにいたのね、ソラマリア。いいえ、別に探していた訳ではないけど、尋問が終わったというのに直ぐにわたくしの元に戻って来ないだなんて珍しい、と思って」
「姉に対する口調とは思えないなあ」とリューデシアが揶揄うように言った。
「やめてく、ださい。リューデシア殿下」ソラマリアは言葉に詰まりつつ抗議する。
「でも姉なんでしょう? 愛する母上がそうお決めになったのだから」とリューデシアはソラマリアに対しても揶揄う。
「ソラマリアが決めることです。お母さまのご遺志を慮る必要などないわ。もちろんわたくしやお姉さまに対しても」とレモニカが言う。「わたくしとて、ソラマリア自身の意志でないならば、姉とも騎士とも認めません。それにリューデシアお姉さまだろうとソラマリアお姉さまだろうと、姉だからといって従うつもりもありません。だから貴女もそうして、ソラマリア」
自分の意志という言葉が、まるで存在に気づいてもらえた喜びを表現するようにソラマリアの頭の中で反響する。考えてみれば、ずっと誰かの思惑、命令に従って生きて来たのだった、札の使い魔たちのように。