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語られる時間はユカリたちが救済機構の拠点ロガット市の砦を襲撃した直後へと舞い戻る。
ファボム写本の抜粋集に宿ったグリュエーは砦を揺るがす騒動を認識していたが、どんな騒動かを知った頃には収束し、ユカリたちが逃げ果せた後だった。きっと、グリュエーが自身の魂を分けて、無断でこの砦へ送り込んだことがユカリたちに知られてしまい、助けに来たに違いない、と初めは推測していた。しかし実際にはグリュエーの魂と邂逅することなく立ち去った。
ユカリがグリュエーを助けられずにいることを、ベルニージュが諦めることを、受忍するとは考えにくかった。だとすればグリュエーの企みをユカリはまだ知らない可能性が高い。今の内に帰ればばれずに済む、とグリュエーは少しだけ安心した。
潮時だ。ノンネットともしっかり約束をした。たとえ聖女になろうとも、あるいはだからこそ救済機構を変えよう、真に誰かの助けになるために、と。
ここを脱出するならば、グリュエーが初めの初めにそうしたように風にでも憑依してユカリたちを探すのも良いし、ユカリを追う僧兵か使い魔にくっつくのも悪くない。
しかし、物足りない、とグリュエーは考えていた。この砦には沢山の封印があるのだ。これの奪取がガレイン半島での最重要目標なのだから、それを目の前にして一人帰還する訳にはいかない。下手すればユカリたちは、もう一度この砦へ襲撃をかけなくてはならなくなってしまう。
「難しいと思いますよ」というのはノンネットの談だ。寝静まった砦の中、ノンネットの部屋で秘密の会話をしていた時のことだ。「この砦の使い魔は全てモディーハンナの【命令】下です。全ての使い魔が一夜ごとにモディーハンナの部屋に戻り、封印を剥がされ、朝、改めて貼り付け、【命令】し直されるそうですから」
どこかから得体の知れない鳴き声が聞こえる夜、ノンネットの囁く言葉は不思議な響きに聞こえる。
「夜に出歩いている使い魔も見かけたよ?」と小冊子のグリュエーは疑義を呈する。
「全てではないのかもしれません。しかし夜にモディーハンナの部屋に帰るのは間違いないです。おそらく砦の警備に使われているような使い魔は別で、働き詰めなのでは?」
そうと決まればグリュエーはすぐに動き出した。ノンネットには引き留められたが、何より「拙僧との関係を疑われるようなことをするなよ」という言外の圧を感じた。少なくとも今グリュエーの魂の宿っているファボム写本の抜粋集は、僧兵ならば誰であっても持っていておかしくはない。つまりノンネットだけが容疑者になることはない。
ある日の夕暮れ、冬籠りに備えて栗鼠や山鼠が掻き集めた食料を塒に押し込む頃、小冊子のグリュエーはノンネットの手を借りて、モディーハンナの部屋の近くの放置されていた木箱の陰に隠れ、夜を待った。埃の舞う薄暗闇の中、焦れた時を過ごし、そもそもモディーハンナの部屋に使い魔たちが戻ってくるという話自体を疑い始めたその時、確かに続々と使い魔たちが戻って来た。
まるで死霊の如き憂鬱な足取りが扉を開いては閉じる。また開いては閉じる。それほど広いはずのない部屋に十人強が入っていった。しかし全てではないかもしれない、という予想も当たっているようだった。グリュエーが知っている限りではこの砦に二十人弱の使い魔がいるはずなのだ。とはいえ完璧を目指して重要な仕事を任されている使い魔まで狙うのは危険度が高い。
暫くして、月が分厚い雲に隠された時、最後の待ち人、青い鬼火を引き連れた悪霊のような姿のモディーハンナが自室へと戻って来る。隈の濃さを見るに、ますます病んだように思われる。恩寵審査会総長は木箱の陰のグリュエーの視線に気づくことなく、幽霊のような足取りで部屋へと入った。暫く青い灯の漏れる部屋の中からごそごそと動き回る物音が聞こえたが、それもすぐに静まり、灯も消えた。念のために更に時間を潰した。できれば寝息が聞こえてくるまで待ちたかったが、ぐずぐずしていれば企みの暴かれる朝は遠慮なくやってくる。グリュエーは意を決する。
薄汚れた小冊子は床を這いずり、折り曲がってモディーハンナの部屋へ、くたびれた扉と冷たい床の隙間から忍び込む。ノンネットの部屋と同様、それなりに地位の高い者に与えられた部屋としてはこじんまりとしたものだ。牢屋よりはましだが、倉庫の方がましだ。
モディーハンナは寝台の中で死んだように眠りに就き、青い炎は消えていた。大量の使い魔たちの憑代はがらくたに戻り、ただでさえ手狭な部屋を圧迫している。
一目見ただけでは封印の在処は分からない。グリュエーは慎重に、静粛に、芋虫の這いずるように部屋の中を捜索する。小さな冊子の体では書棚どころか寝台の上を確認することさえ、一苦労だ。しかし何とか寝台の脚を上り、寝息を立てるモディーハンナの隣に封印を発見する。封印は重ねられており、最後は粘着面同士で貼り付けてあった。剥がすのは面倒そうだが、意図せず貼られることもない。その手があったか、と敵ながら感心する。お陰で持ち去るのも簡単だ。小冊子の間に挟み、出て行くだけだ。
しかしまさに部屋を出たところでグリュエーは一つの案を閃く。端的に言えば欲をかいたのだ。封印の束からユカリ派の中に見覚えのある一枚を剥がし、さっきまで隠れていた木箱に貼り付ける。
「大きい声出しちゃ駄目だよ」
「んん? ここは? それに、紙切れが喋ってんのかい?」木箱は何らかの獣のような形になったが、木箱の性質を強く残していて判然としない。
「グリュエーだよ。君は耕す者、だよね? モディーハンナの部屋から盗み出したんだよ」
「おお、あのお嬢さんか。オレを助けに来てくれたってことか?」
「皆を、ね。ノンネットの部屋は分かる? 先に戻っていて」
「分かるが。グリュエーは何をするつもりだ?」
「モディーハンナを人質に取ろうと思う」
そう言ってグリュエーは一枚の封印、葬る者の札をひらひらと揺らす。
「そりゃ大それたことだな。だが、やる価値はある。でも手伝わなくていいのか?」
「貼り付けるだけだもの。簡単だね。だからこそ恐ろしいとも言えるけど」
グリュエーは慎重に部屋を出て耕す者を見送り、再びモディーハンナの部屋へと戻る。相変わらずモディーハンナは夢の中だ。グリュエーは再度寝台の脚を上り、モディーハンナの横顔を間近に見つめる。敵とはいえ、生きた人間を操ることに少しの躊躇いも無かった訳ではないが、モディーハンナという強力な戦力を削る効果の大きさは魅力的だ。
グリュエーはそっと眠る尼僧の頬に封印を貼る。
「さあ、行くよ。ここから脱出しよう」とグリュエーは【命令】する。「グリュエーについて来て」
しかし使い魔も、それに操られるはずのモディーハンナも反応しない。グリュエーは頁を傾げ、もう一度、二度、三度と【命令】し直す。しかしやはりモディーハンナは眠ったままだった。
「何でだろう? 偽物? いや、耕す者は動いていたし」
「知らないんですか?」モディーハンナの声と共に青白い炎が空中にぱっと燃え上がり、質素な部屋を不気味に照らし出す。そしてその骨ばった手でグリュエーの宿った小冊子を掴む。「より格上の使い魔の封印を貼っておけば操られることはないのですよ。そんなことも知らないということは……」そう言ってモディーハンナは丹念にファボム写本の抜粋集を検める。そう多くない頁を捲る。「使い魔ではないのですか。一体何者です?」
グリュエーは捕まった時点で一切喋らず、動かなかった。魔法で操られていた小冊子からその力が失われた、かのように。
モディーハンナは枕元にあるべき封印の置いてあった場所を見つめて呟く。
「ユカリさんたちか、大王国か。まあ、どちらでも構いませんが」
そうして小冊子をじっと見つめた後、モディーハンナは寝台を降り、何かを確信したような表情を青白い炎に照らされて、部屋を出る。