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#ワンナイトラブ
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役員会の騒動から数週間
京介の鮮やかな逆転劇によって副社長派は一掃され
私の担当した広報プロジェクトも過去最高の成果を収めていた。
そして何より、おばあちゃんが無事に退院し
住み慣れた田舎の家で穏やかな生活を取り戻した。
すべてが、あまりにも完璧だった。
けれど、私の心には時折、鋭く冷たい隙間風が吹き抜けていた。
「志乃、何をぼうっとしている。コーヒーが冷めるぞ」
朝のダイニング。
京介が新聞から目を離さずに、低く柔らかな声で語りかけてくる。
同居生活は、今も変わらず続いている。
夜の「義務」も、あの総会の日以来、互いの熱を確かめ合うように
より深く、甘く繰り返されている。
けれど、私の頭を離れないのは、デスクの奥深くで眠る、あの『専属配偶者契約書』に記された期限だった。
(契約の目的は、もうすべて果たされてしまった。おばあちゃんは安心し、彼の地位も揺るぎないものになった。……なら、私はもう、ここにいる理由がないんじゃないの?)
社内では「社長夫人の座を射止めた現代のシンデレラ」なんて羨望混じりに囁かれているけれど
私は知っている。彼が求めていたのは、完璧に仕事をこなし
完璧に「妻」を演じる氷室志乃というロールだったはずだ。
それが終われば、この夢のような日々も幕を閉じる。
「……京介様、契約の件ですが、期間終了後の諸手続きについて、そろそろ打ち合わせをさせていただきたいのですが……」
私の言葉に、京介が動かしていたペンをぴたりと止めた。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳は、夜明け前の冬の海のように、深く凍りついている。
「手続き? ……ああ、そうか。契約満了まで、あと一ヶ月か」
「はい。おばあちゃんも元気になりましたし、これ以上、社長にプライベートなご負担をかけるわけには参りません」
「負担、か」
京介が椅子を引き、音もなく私の方へ歩み寄ってくる。
その一歩一歩の足音に、私は思わず身をすくめた。
彼は私の顎を強引に掬い上げると
シルバーフレームの眼鏡の奥にある私の瞳を、魂まで射抜くような強さで見つめる。
「志乃。お前は、本当にこの家を出ていくつもりか?」
「えっ?」
「俺の隣を辞め、あのアパートで一人、また感情を殺した『氷の女』を演じるだけの生活に戻るというのか?」
「そ、そんな酷い言い方しなくても。……それが、本来の私の姿ですから。…第一、私自身に価値が……」
最後まで言い切る前に、彼の唇が私の卑屈な言葉をすべて奪った。
それは、剥き出しの怒りと、そしてどこか悲痛な拒絶が混じったような、痛いほど激しいキスだった。
「ふざけるな。……お前を離さないと言った俺の言葉を、まだ単なるビジネスのリップサービスだと思っているのか?」
京介の逞しい腕が、折れそうなほど強く私を抱きしめる。
契約という、自分を守ってくれていたはずの盾がなくなった今、私は彼に愛される自信が持てなくて───
ただ、彼の広い胸の中で、静かに震えることしかできなかった。