テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#ワンナイトラブ
翌朝
京介は予定されていたすべての会議をキャンセルし、私を車に乗せた。
向かった先は、私たちが初めて出会った場所───
私が中途採用の最終面接を受け
彼に「君の目は、仕事以外のすべてを捨てた者の目だ」と冷酷に言い放たれた
あの古い自社ビルの屋上庭園だった。
高層ビル群が燃えるような夕日に染まる中、京介はポケットから一通の封筒を取り出した。
それは、私と彼の運命を強引に繋ぎ
そして今まで縛り付けてきたあの『専属配偶者契約書』だった。
「志乃。これを見ろ」
彼は私の目の前で、迷うことなくその重要書類を真っ二つに引き裂いた。
夕風に舞う白い紙吹雪を、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。
「……契約を、今ここで破棄するんですか?」
「ああ。こんな紙切れの効力で、お前を繋ぎ止めておくのはもう限界だ。……お前が言う通り、契約上の役割を演じる『氷室志乃』は、今日この瞬間をもって終了とする」
胸が、千切れるように痛む。
やっぱり、すべて終わってしまうんだ。
私はシルバーフレームの眼鏡を指で押し上げ、溢れそうになる涙を必死で堪えた。
「……わかりました。今まで、私のような者に居場所を与えてくださって、ありがとうございました、社長」
「まだ話は終わっていない。……勝手に幕を引くな。顔を上げろ、志乃」
京介が私の肩を強く掴み、無理やり自分の方を向かせる。
彼はその場に静かに膝をつき、私の左手を取った。
その薬指には、あの日から一度も外さず
肌の一部のように馴染んでいたあの重厚な指輪が輝いている。
「俺が本当に欲しかったのは、完璧な秘書でも、身代わりの妻という記号でもない」
「……仕事の合間に見せるお前の不器用な笑顔や、俺の腕の中でだけ見せる無防備な素顔。そんな、契約書には一文字も書ききれない『お前自身』なんだ」
京介はもう一つの小さな箱を取り出し、その蓋を恭しく開けた。
そこにあったのは、これ見よがしなダイヤではなく
私の瞳の色に似た、深く澄んだ輝きを放つサファイアの指輪だった。
「氷室志乃。……俺と、本当の妻になってくれないか。これは強制でも、業務命令でもない。一人の男としての、一生に一度の……最初で最後の願いだ」
「俺のものになれ」という命令ではなく、「妻になってほしい」という懇願。
その飾らない言葉に、私の心の奥底にあったダムが決壊した。
眼鏡が涙で曇るのも構わず、私は彼の広い胸に飛び込んだ。
「……私で、本当にいいんですか? 仕事しか取り柄のない、可愛げのない私でも…」
「お前がいいんだ。……いや、お前じゃなきゃ、俺の隣は務まらないんだよ、志乃」
重なり合う、激しい鼓動
夕闇の中で交わしたキスは、もう「練習」でも「義務」でもなかった。