「夢じゃないよね……」
思わず口から出てしまったそれを、誰にも聞かれていないかと、俺は慌てて周りを見た。だが、俺の事なんて興味ない人達は、スマホをみたり、時間を見たりして各々自分の事だけに集中していた。普通はそう、それが当たり前。
俺は、浮き足だって、ゆず君と晴れて結ばれたことが、一夜経っても信じられなかった。勿論それが、夢だったら、なんて悲しいことは考えなかった。夢だったらどうしようと思わなかったわけではない。
でも、何度頬を抓っても痛いから、これは現実だって、俺は思っている。
(はあ……本当に)
夢が叶った、とかは大げさかも知れない。でも、初めての恋が実ったという実感は、凄くあって、今も、ゆず君の顔が頭に浮かんでは、消えて、また浮かんでを繰り返している。
可愛いものが好きだった。ゆず君は可愛い、でも格好良くて。たまあに、自分のこと隠したがるけど、そういう所も含めて全部好きだった。
満員電車に乗り込んで、ぎゅうぎゅうに押し詰められても、俺は今日だけは、全て許容できた。満員電車なんて人が乗るものじゃないって思ってるけど、ゆず君の恋人になれたっていうそういう余韻で乗り続けることが出来た。これがなかったら、いつも朝から陰鬱な気持ちで、学校に行かなければならないから。
最寄り駅について、いつもは歌う気力も無い鼻歌を歌いながら、大学のキャンパスに向かって歩く。
ピタリと立ち止まって、スマホを確認すれば、ゆず君から「おはよう」のメッセージが届いていることに気がついた。もっと早く気づいていれば、という後悔もそこそこに、その文面を見ただけで、にやあ……と頬が緩んでしまうのは許して欲しい。
今日は、撮影で、一緒にいられないとのことで、少し悲しいが、夜には電話をしようって約束をしている。それが、今から待ち遠しい。
何かを楽しみにする、何て言うこと最近はなかったから、少し新鮮な感覚且つ、ドキドキ感があって、俺は落ち着かなかった。恋をすると人生が変わるんだなって、こういうことなんだ、と俺は改めて実感する。
まあ、大学内で、それを話せるのは後輩だけで、今は学園祭の準備で忙しい。講義なんてほっぽかしている学生も多く、俺は、取り敢えずは真面目に受けているつもりだ。
おはよう、なんていえる人もいなく、そそくさとゼミ室に直行しようと思っていたら、何やら、人だかりが出来ていることに気がついた。学科の活動報告をはる掲示板。そこに人が集まっていたのだ。そういえば、今日は月曜日で、あの例の写真が貼られるのって月曜日だったよな、なんて考えながら、俺は、もしかしたらな……と思いつつ背を向けて歩こうとする。しかし、「先輩」と消え入るような声で、声をかけられ、足を止めてしまう。振向けばそこにいたのは、不格好なハーフアップの後輩、あずゆみ君で、彼は、いいにくそうに、そして、心配そうに空色の瞳を俺に向けていた。
何か言いたいことがあるのだろうかと、首を傾げていれば、バッと一斉に、掲示板に集まっていた人達がこっちを向く。
奇怪な目で、俺を見て、それから、ひそひそ話をするように、「彼奴だよな」、「間違いないよ」、「ええ、そんな風に見えないんだけど」なんて、口々に何かを言っているようだった。内容までは聞えなかったが、良いことをいっている、という雰囲気ではなかったため、俺は、眉をひそめる。
嫌な予感がする。
胸のあたりを触られるような、そんな感覚に、俺は頭痛がしてくる。
あずゆみ君の視線といい、本当に嫌なものを感じて、今すぐにでも、俺はその場を離れたかった。
「先輩、場所を変えましょう」
「……あずゆみ君」
あずゆみ君は、まるでここにいては危険だというように俺の服を引っ張った。ここから、一目散に逃げようと、そう提案してきているようだった。状況が、未だ飲み込めていないため、俺は、立ち止まることしか出来なくて、あずゆみ君を見つめ返すことしかできない。
そんな時場違いみたいな、声が、俺とあずゆみ君の耳に入ってくる。
「紡先輩、おはようございます」
「あ……ちぎり君。おは、おはよう」
また、身体が勝手に拒絶反応を起こす。
わざとらしく、首を傾げたちぎり君の耳にはラピスラズリのピアスが埋め込まれており、それがキラリと輝く。
ちぎり君は、俺とあずゆみ君を交互に見た後、掲示板の方に顔を向けた。
「あー今日、貼られてたんですね。写真。見ました? 先輩」
「いや、みてない……けど。興味ないし」
正直言うと、見たくない。見るなと身体が反応しているようで、俺は、見る、という行動に踏み切れずにいた。
けれど、ちぎり君は見てください、というように俺を見つめてくる。あずゆみ君はぐいっと俺の服を引っ張って、それを阻止しようとする。
見ないほうがいいっていうのは、何となく分かっていたんだけど、吸い寄せられるかのように、俺は一歩を踏み出した。
「先輩!」
「……っ」
人の波をかき分け、掲示板にたどり着く頃には、あずゆみ君の声は、遠くになっていた。
そして、掲示板を、写真を前にして、俺は言葉を失ってしまった。
「……は、何で」
絶句。撮られているはずもない写真、そのアングルでどう撮ったのかって聞きたくなるような、鮮明に写りすぎている写真。
俺は、持っていた鞄が肩からずり落ちた。まわりの人の視線が刺さり、俺はどうしようもないパニックに陥る。
「この、写真……何で、なんで……これ」
写真の一枚をつぅっとなぞった後、俺はその写真を引っ掻いて、破いた。だって、それは、あの夜、俺が暴漢達に襲われた時の写真だったから。
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