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サファイア・フォン・スペンサー男爵令嬢は、幼い頃から三つ歳の離れた兄の親友のカール・ディ・フォルトナム公爵令息に思いを寄せていた。
フォルトナム公爵令息はその地位に似合わず、とても気さくな性格で誰にでも分け隔てなく優しく接する人物だった。 もちろんサファイアにもとても優しく接してくれていた。
とはいえ、フォルトナム公爵令息は公爵家の生まれであり、男爵家のサファイアとは釣り合いが取れず、どんなに想いを寄せていてもこの恋は成就しないことはサファイア自身が一番よくわかっていた。
ところが、サファイアが十四になった頃、突然フォルトナム公爵家からサファイアとの婚約の話を打診された。
フォルトナム公爵家からの説明では、かねてからサファイアの兄であるカルロとフォルトナム公爵令息が親しくしており、両家も懇意にしているから婚約を結びたい。という、なんとも曖昧なものであった。
いくらなんでも息子達が親しいからと、釣り合わない家の娘を婚約者としてもらうなど、正直ありえない話だった。
だが、サファイアの両親は反対する理由もなく、すぐにその婚約を受ける返事を出した。
トントン拍子に話が進み、婚約は早急に取り交わされることとなり、スペンサー家がフォルトナム公爵家に招待されると、両家の両親と当人同士が合意の上で書類にサインをし、契約を交わした。
と、その瞬間のことだった、サファイアは妙な既視感を覚えた。
私はこのシーンや会話の内容を知っている、読んだことがある。でもどこで? と、思い出そうとするが目眩がし気分が悪くなってしまった。
フォルトナム公爵令息は、すぐにサファイアの様子に気づいた。
「緊張したのだろう? 顔色が悪い。君は少し休んでおいで」
そう言って、空いている部屋にサファイアを案内して休ませた。 サファイアは室内で猛烈な目眩と戦いながらも、既視感の原因を頭の中で探っていると、突然霧が晴れたように前世での記憶が流れ込んできた。
そして気づいた、この世界は前世で読んだライトノベルのスピンオフの短編の世界だということを。
そのライトノベルの物語のあらすじは、主人公はリアン・ディ・パシュート公爵令嬢で、幼馴染のカール・ファン・フォルトナム公爵令息とお互い好き合っていたが、パシュート公爵令嬢が王太子殿下と近々婚約するとの噂を聞いた、フォルトナム公爵令息は、絶望してしまい昔から知っている、親友の妹の男爵令嬢に婚約の申し入れをしてしまう。
それにショックを受けたパシュート公爵令嬢は、本当に王太子殿下と婚約してしまいそうになるが、やはりフォルトナム公爵令息を諦めきれずに思いの丈をぶつけ、それを見ていた男爵令嬢は愛しているフォルトナム公爵令息のため自ら身を引き、二人はハッピーエンド、と言う話だ。
前世では二人のすれ違う恋心が刺さって、どハマリした小説だった。だが自分が男爵令嬢の立場だと思うと一気に気分が沈んだ。前世で、王太子殿下が可哀想だと王太子殿下も人気が一番高い中、サファイアはそれでもフォルトナム公爵令息推しであった。なのに、その最推しに土壇場で捨てられるのだ。
せっかく転生したのに、よりによって当て馬モブの、名前すらないキャラクターに転生してしまうなんて。と思いもしたが、この現実は変えられない。婚約者として生で推しを愛でられる現状を思う存分堪能しながら、婚約解消のあとのことを考えよう。と、頭を切り替えるように努めた。
それに小説の中でも、優しいフォルトナム公爵令息はちゃんと男爵令嬢を愛そうと努力していた。そんな優しさも知っていたので、彼には幸せになって欲しかった。
婚約を交わしてからのフォルトナム公爵令息は、更にサファイアのことを大切にしてくれた。流行のお菓子があればそれを取り寄せ、休みの日には必ずデートに誘ってきた。
もちろん誕生日にはたくさんの宝石や花のプレゼントにメッセージカードももらった。サファイアは全てが嬉しくて、花は全てドライフラワーにしてとっておいた。
結局振られてしまうのだから、今のうちにこの大切な思い出を、一つ一つ心に刻んでおこうと決めていた。
ある日、二人でお茶をしながら、サファイアは、うっとりフォルトナム公爵令息を見つめていた。それに気づいたフォルトナム公爵令息はサファイアを見つめ返し
「君はいつも私を見つめているだけで、なぜなにも要求しないんだ? たまには我儘を言ってくれてもいいんだよ?」
と優しく微笑んだ。サファイアは、キャー! カール様優しい! 素敵すぎる! もうその存在が尊いです! と、心の中で叫びながらも、この先のことを考えると胸の奥が締め付けられた。するとフォルトナム公爵令息は
「ほら、またそんなに悲しい顔をして。どうしたら私は君を笑顔にできるのか……」
と、サファイアの頬を優しく撫でた。サファイアは自分でも顔が赤くなるのを感じる。とんでもない! なにもしなくとも、カール様はやっぱり最高です! 大丈夫です! これを思い出に生きていきますから! と心に誓っていると、フォルトナム公爵令息は
「顔を赤くして、可愛いね」
と、髪を一束すくうとそこにキスをした。ひぃーっ! と、思いつつサファイアは
「か、可愛くないです! それにフォルトナム公爵令息様のほうがかっこ良くて素敵すぎます!!」
と言った。フォルトナム公爵令息は苦笑して
「お褒めに預かって嬉しいよ。だが、私たちは近い将来夫婦となるのに、その他人行儀な呼び方はやめないか? カールでいい」
と言った。その一言にサファイア現実に引き戻された。フォルトナム公爵令息の言っている近い将来はやって来ないことを、サファイアは知っているからだ。サファイアは一気に気落ちし、落ち着きを取り戻すと
「はしたないところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。名前をお呼びするのは、結婚してからの楽しみにしておきますわね」
と微笑んだ。フォルトナム公爵令息も微笑むと
「君がそう言うなら。それにしても、楽しみにしておくってことは、君も私たちの結婚について、楽しみにしてくれていると考えていいんだよね?」
と訊いてきた。サファイアは
「もちろんですわ」
と言ったあと、それが本当に実現するのなら、と心の中でつぶやく。そして無理に笑顔を作った。ふと見ると、フォルトナム公爵令息の袖口の小さなくるみボタンが一つ取れてなくなってしまっているのに気づいた。
「フォルトナム公爵令息、袖口のボタンが……」
と言うと、フォルトナム公爵令息は自分の袖口を見て、顔を上げ笑い
「これは、恥ずかしいね。実はこのジャケットを気に入っていてね、何度も着ているから取れてしまったのだろう。ボタンを全て変えなくては」
と言った。そんな照れ笑いの笑顔も眩しい。サファイアは思わず
「あの、恥を承知で申し上げるのですが、ボタンを変えるのなら使ったあとのボタンをいただけないでしょうか?」
と訊く。フォルトナム公爵令息は怪訝な顔をしたが
「使用済みを? このボタンが気に入ったのなら、新しいものを君の邸宅まで届けさせよう」
と言った。サファイアは首を振ると
「フォルトナム公爵令息の使用されてたものが欲しいのです!!」
と言ったあと、とてつもなく恥ずかしいことをいってしまったことに気づき、顔を赤くして俯き
「は、はしたないことを言ってしまいました。忘れて下さい」
と、言った。フォルトナム公爵令息は微笑み
「いいよ、わかった。交換したら使用したものを君の邸宅へ届けさせるよ」
と言ってくれた。サファイアはフォルトナム公爵令息が寛容な人で良かったと、胸を撫で下ろし
「ありがとうございます、大切にします」
と言った。フォルトナム公爵令息はサファイアの顔をまじまじと見つめ
「そんなものでいいの? 私は君が欲しいと言うなら夜空の月ですら手に入れる努力を惜しまないよ」
と言った。サファイアは、カール様、|私《わたくし》を殺す気ですか! 嗚呼、興奮してぶっ倒れそう……と、思いつつ
「ありがとうございます。ボタンがいいのです。それを側に置き、いつもフォルトナム公爵令息を感じていたかったので」
と、笑顔を返した。言った後でフォルトナム公爵令息が引いてしまうのではないかと心配したが、彼は笑顔を返すのみで嫌がりはしなかった。
後日、言っていた通りくるみボタンが届いた。黒地に刺繍が施されており、合わせようと思えば何にでも合いそうだった。
両親にこのボタンを使ってドレスやそれに合わせた小物を作りたいと、おねだりすると、お父様は難色を示したがお母様が
「あら、まぁ、なんて可愛いこと。サファイアもお年頃ですものね、ふふふ。|私《わたくし》は良いと思いますわ」
と、お父様を説得してくれた。懇意にしている針子を呼んで色々相談しながら、お散歩用のドレスに髪飾りのリボン、日傘、バッグにボタンをアレンジして使用したものを作るように依頼した。
流石に恥ずかしくて、フォルトナム公爵令息と出かける時にそのドレスを着ることはなかったが、突然にフォルトナム公爵令息が訪れ、散歩に誘うこともあり、何度か着ているのを見られたことがあった。フォルトナム公爵令息はただ一言
「ボタン、気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
と言ってくださった。
そんな優しい日々の中、サファイアは自分に言い聞かせる。この人はどんなに|私《わたくし》に優しくても、今この瞬間もパシュート公爵令嬢を思っているのだ。それを忘れてはならない。
それに、今までは活字の中の存在だったのが、目の前にいてこうして触れることもできるのだ。こんなに贅沢なことはないのだから、これ以上求めてはいけないのだ、と。
それでも、フォルトナム公爵令息の優しさに、もしかして本当に|私《わたくし》を愛してくれているのではないか? と、時々勘違いしそうになった。
そんな日々の終焉も近づいていた。ついに、サファイアが婚約解消を告げられる舞踏会の、招待状が届いたのだ。招待状の中をメイドが読み上げ、お母様が
「サファイア、きっとフォルトナム公爵令息にも招待状が届いているでしょうね。ドレスの相談をフォルトナム公爵令息となさいな」
と言ったが、惨めに婚約解消されるのにフォルトナム公爵令息と衣装を合わせるなど、とてもできたものではなかった。サファイアはなるべく感情を表に出さぬように
「お母様、この舞踏会は|私《わたくし》の婚前に参加する最後の舞踏会ですわ、揃いではないのですがどうしても着てみたいドレスがありますの」
と、フォルトナム公爵令息とは揃いのドレスを着ないことを告げた。お母様は困った顔をしたが
「しょうのない子ね」
と笑って許した。基本的にお母様は甘いので我儘を言いやすくて良かったと、ホッとするのだった。
舞踏会当日、私が着たのは黒いドレス。フォルトナム公爵令息はドレスを見ると一瞬ハッとしたが、特にドレスには触れず
「君は今日も美しい」
と言った。嘘つき。と心で呟き差し出されたフォルトナム公爵令息の手を取ると
「ありがとうございます」
と、極上の微笑みを作って見せる。
舞踏会の会場に近づくにつれ、小説内での主人公とフォルトナム公爵令息との会話が思い浮かんでは消える。二人は深く愛し合っていた。私と言う障害がいなければもっと早くに結びついていた二人。
会場につくと膝がガクガクと震えてしまう。その場になって、私は言えるだろうか? 小説内で男爵令嬢がフォルトナム公爵令息に向かって言った『愛しているからこそ、身を引きましょう』と言うセリフを。
いよいよ顔色の悪くなったサファイアを心配したフォルトナム公爵令息は
「顔色が悪い、テラスに行って外の空気を吸うといいよ」
と、テラスへ連れ出す。が、その場所こそパシュート公爵令嬢がフォルトナム公爵令息に思いの丈をぶつけ、私こと男爵令嬢と別れを告げる場所だった。私は目眩で倒れそうなのをこらえ、フォルトナム公爵令息に支えられながらテラスへ向かう。
テラスへ出ると、その先に佇むパシュート公爵令嬢。その姿を見て、ついにこの瞬間がやってきた、運命は変えられないと覚悟する。 サファイアは自分を鼓舞し、立ち止まる。そして私を振り返るフォルトナム公爵令息の手を離しながら小説の中のセリフを言おうとした。が、身を引きましょうという言葉がどうしても言えない。なんとか言った言葉は
「心よりお慕いしております。貴方との日々は一生の宝物にします。どうかお幸せに」
だった。言い終わるか終わらないかの瞬間、パシュート公爵令嬢が後ろからフォルトナム公爵令息に抱きつくのが見えた。パシュート公爵令嬢を振り向いて見るフォルトナム公爵令息。
サファイアは涙で目が滲んで二人の姿も、フォルトナム公爵令息がどんな表情をしているのかも、ハッキリとは見えなかった。それはサファイアにとって唯一の救いだった。
その後は後ろも振り返らずにひたすら人をかき分け、エントランスホールに向かって走った。さよなら愛しい人、涙が止まらない。 走って靴はボロボロ、涙で顔はグチャグチャ小説の中での男爵令嬢はこうはならなかったかもしれない。と思いながらエントランスから外へ出ると、馬車へ辿り着き、御者に声をかけ馬車に飛び乗る。
御者が鞭打ち、馬が走り出す。馬車の中でサファイアは自分で自分を抱きしめる。そして、大丈夫、頑張ったね、大丈夫、忘れられる、と自身を励まし、慰め、言い聞かせる。 その間にも小説の中の話の続きが頭の中を巡る。狂おしいぐらいに抱き合う二人、永遠の愛を誓い合い、幸せそうに微笑むフォルトナム公爵令息。
全てが終わった。
これで良かったのだ、間違ったことはしていない。涙がとめどなく溢れ、声を出して泣き始めた。
そこで外が騒がしいことに気づく。窓からそっと外を覗くと、フォルトナム公爵令息がドアを叩いていた。慌ててドアの鍵を開けてフォルトナム公爵令息を馬車に乗せる。
「フォルトナム公爵令息、なぜここに? パシュート公爵令嬢はどうしたのですか!?」
と、思わず叫ぶ。せっかく決心したのに、二人がくっつかなければ苦労が水の泡だ。だがフォルトナム公爵令息は息を切らしながら
「逆に私が聞きたいよ、何故君は私とのことを思い出にしてしまうんだ」
サファイアは意味がわからず
「何をおっしゃってますの? フォルトナム公爵令息の昔からの想い人であるパシュート公爵令嬢様が貴方を選んだのですよ? 断る理由などないではありませんか。私は貴方の幸せを願ってあの場を離れたというのに」
と返す。フォルトナム公爵令息は相当急いで来たのか、まだ息を切らせながら
「なんだって!? 冗談じゃない、私の婚約者は君だ。公爵令嬢に乗り換える訳がないだろう」
と叫ぶ。一瞬期待したが、婚約している責任から追いかけてきたのがわかり
「フォルトナム公爵令息、義務で|私《わたくし》と夫婦になっていただいてもきっと後悔することになりますよ? まだ間に合います。馬車を会場に戻しますから、今からでも公爵令嬢のもとにお戻りになられて下さい」
と言ってサファイアは御者に戻るように合図をした。フォルトナム公爵令息はそれを制し
「だからなぜそうなる!」
と言ったあと、少し考え
「もしかして君は、私がパシュート公爵令嬢を、今でも愛してると思っているのか?」
と言った。思っているというか、事実である。サファイアは頷き
「お二人はあんなにも相思相愛でしたのに、ちょっとしたすれ違いでこうなってしまいました。もうお互いに我慢する必要もありません。私は婚約解消しても大丈夫です。フォルトナム公爵令息には想い出をたくさんいただきましたから」
と、微笑んだ。フォルトナム公爵令息は大きくため息をつくと
「道理で、君が私を愛してくれているのに、いつも憂い表情を浮かべていた訳だ。そんな勘違いをしていたとは」
と言うと私の手を取り
「いいかい? 私はパシュート公爵令嬢を今は愛していない。昔はそんな時期もあったが彼女の打算的な考え方に気がついてしまったからだ。彼女は王太子殿下と私を天秤にかけようとしていた。私は、女性はもう信じられないと思った。だがそんな時に一人だけ打算もなく、私の側でいつも純真な瞳で見つめてくれる存在を思い出した」
と言ってサファイアの頬を撫でる。そして続けて
「君だよ。信じられるのは君しかいないと思った。君が何処かの誰かに嫁いでしまう前にと、私はすぐに両親に伝え、君と婚約することにした」
と微笑み、
「強引に婚約の話を進めてしまい、申し訳なかったね」
と謝ると
「婚約してからは、私が贈った宝石よりも私の使ったボタンをおねだりし、愛用する君にますます夢中になった。今日の黒いドレスを見たときは、君からの何かしらのメッセージだろうと警戒した。それが公爵令嬢のことだったとはね。何度でも言おう、私には君しかいないよ、お願いだ、私を諦めないで」
と、サファイアを引き寄せ肩を抱いた。私は顔を上げ
「私でよろしいのですか? このまま貴方を愛し続けてもよろしいのですか?」
と訊いた。フォルトナム公爵令息は頷きそのまま更に力強く抱き締め
「もちろん、私は君に永遠の愛を誓うよ」
と言った。私は目を閉じると、フォルトナム公爵令息はそのままサファイアにくちづけた。天にも昇る心地だった。フォルトナム公爵令息は
「二度と私のもとから離れないこと。いいね?」
と微笑む。|私《わたくし》は頷くと
「はい。カール様、愛しています。もう二度と離れません」
と愛を伝えた。
結局その後パシュート公爵令嬢は王太子殿下と婚約することもなく、どこかの侯爵家へと嫁いでいった。サファイアは今が幸せ過ぎて公爵令嬢のその後のことなど、正直どうでも良かった。
その後、フォルトナム公爵家とスペンサー男爵家の婚礼が盛大に執り行われ、二人は格差を超えた真の愛で結ばれた二人、と後々まで語られる、仲睦まじい夫婦として知れ渡ることとなった。
こうして小説の話とは違う私の物語は幸せのうちに幕を閉じたのだった。