夜8時。
俺は突然の電話で呼び出され、ホテルのバーへとやって来た。
ここは、酔っ払った鈴木を拾った場所。
本当なら別の所にと思ったが、落ち着いていて知り合いに会わないようにと思うとここしかなかった。
「おい」
カウンターの隅に座った男が手を上げた。
「ああ、お待たせ」
約束の時間に遅れたわけではないが、すでにグラスが空きかけているのを見て言ってしまった。
「俺が早すぎたんだ」
「そうか」
ひさしぶりに見る親友は変らない優しい表情を向けてくれる。
何もかも8年前のままだ。
「久しぶりだな」
「ああ」
新しく差し出されたグラスを傾けながら、フーッと息を吐いた男。
俺の幼なじみ。
元々母親同士が知り合いで、小学校の頃からいつも一緒にいた。中学も高校も一緒だった。
親父の勧めで経済学部に進んだ俺と、医者だった親父さんの希望で医学部を選んだこいつ。
大学に入るときになって初めて違う人生を選択した。
それでも、お互いの彼女も含めて仲良くしていた。
こいつは一生の親友であり、誰よりも俺を知る男だ。
「髙田鷹文かあ」
ククク。
おかしそうに笑われた。
「悪いかよ」
「別に・・・」
何が言いたいのか、想像はつく。
でもな、これが今の俺なんだ。
***
今日の午後、久しぶりに訪れた郊外の本屋で偶然鈴木と会った。
お互い同じ本を手にしようとしていたこともあって、少しだけ立ち話をした。
昨日一日一緒にいてもう話すこともないだろうに、鈴木との会話は楽しかった。
こんなところで会えて得した気分だなあと、思っていたとき、
「一華ちゃん」
背後から男の声がした。
ちょっと困った顔をした鈴木が、
「会社の同期。偶然ここで会って」
と言うのが聞こえて、ああ連れの男かと気づいた。
そうとわかれば、鈴木を困らせないように挨拶するしかない。
「会社の同期で高田鷹文と言いま、す」
男の顔を見た瞬間、言葉に詰まった。
それでも気付かれないようになんとか誤魔化した。
相手も知らないふりで挨拶を返してくれた。
「彼女、かわいいな」
「へ?」
間抜けな声を上げてしまった。
「彼女だよ、一華ちゃん」
「ああ」
ぶっきらぼうに相づちを打ち、俺はビールをグイッと流し込んだ。
***
営業なんて仕事をしているとイヤでも酒が強くなるし、酔いつぶれない方法も、自分の限界だってわかってくる。実際、ここ数年は酒に飲まれた記憶はない。
でも、今日の俺はかなり速いピッチでグラスを空けていた。
きっと、現実を知りたくない気持ちが、酒に逃げさせているんだと思う。
「不思議だな」
俺の方を見ることもなく、呟くように話す白川潤。
俺の親友だった男。
そして、今は鈴木のお見合い相手だと名乗った。
「何が不思議なんだ?」
聞くのが怖いと思いながら、口にしてしまった。
「自分の過去も、家族も、将来も、すべてを捨ててひっそりと暮らすことを望んだお前が一華ちゃんの側にいるのが不思議だって言ったんだ」
「そうか?俺はただ、彼女の同期なだけだ」
大意はない。
「そうは見えなかったがな」
潤の声が意地悪く聞こえた。
昔から、こいつはいつもそうだった。
成績も、スポーツも、バレンタインデーのチョコの数さえいつもライバルだった。
ずっと、2人で1番を競っていた。
高校3年の進路選択のとき、
「俺は医学部に行く」
と言われ、ああ、これで潤と競わなくて良くなるとホッとしたものだ。
「彼女は俺たち側の人間だろう?」
ええ?
『俺たち側の人間』なんて、親父が言いそうな言葉を潤が使っているのが不思議だった。
この平和な日本に身分階級なんて存在しないのに。
「お前、いつの時代を生きているんだよ。そもそも、俺がどう生きようと自由だし、鈴木がお前と付き合うのだって俺には関係ない。変な妄想をして絡まないでくれ」
つい、きつい口調になった。
なぜだろう、こいつの前では余裕がなくなってしまう。
油断すると潤のペースに乗せられてしまいそうで怖い。
コトン。
グラスをカウンターに置き、潤が俺を振り返った。
ん?
真面目な顔をしている。
「本当にそう言いきれるか?彼女は、お前のために今日俺とデートをしたんだぞ」
「はあ?」
間抜けな声を上げてしまった。
「けなげじゃないか」
「どういう意味だよ」
説明しろと、俺は潤に詰め寄った。
「フッ。やっぱり知らなかったんだな」
「何を?」
このもったいぶった話し方は昔とちっとも変らない。
「聞きたいか?」
挑発的な言葉。
クソッ。
思わず拳を握りしめて、それでも、
「頼む、教えてくれ」
俺は頭を下げた。
***
「と言うわけだ」
潤は鈴木とのいきさつと、今日のことをかいつまんで話してくれた。
聞きながら、俺は無性に腹が立った。
何にでも猪突猛進で、無鉄砲にぶつかっていく。それが鈴木の長所だと思う。
でも、今は腹立たしい。
頭の回転が悪いわけでもないし、空気を読めないほど鈍感なわけでもないのに、なぜ肝心なときに相手の気持ちが理解できないのか。
ああーー、腹が立つ。
「そんなに怒るなって、一華ちゃんなりに一生懸命なんだから」
この期に及んで、いきなりいい奴になろうとする潤。お前が一番悪魔なんだよ。
「何が一生懸命だって?いい加減にしろ。こっちはいい迷惑だ。ああー、もう」
つい声を上げてしまった。
絶対に許さない。明日の朝呼び出して、山のような書類仕事を回してやる。
当分外回りにはでられないようにして、泣かせてやる。
あれだけ何もするなって言ったのに、コソコソしやがって・・・
「鷹文。お前、変ったな?」
はあ?
突然言われた言葉に俺は固まった。
何をいきなり。
俺が変ってしまった原因を誰よりも知っているのはお前じゃないか。
「変ったのは8年前だ。お前だって知っているだろう」
あの時、俺は1度死んだ。
もがいて苦しんで、やっと今の生活を手にしたんだ。
「一華ちゃんが変えたんじゃないのか?」
潤がジーッと見ている。
「違う」
鈴木は関係ない。
俺はもう、彼女に近づかないと決めたんだ。
彼女を俺の人生に巻き込むわけにはいかない。
***
「俺は今のままがいいんだ」
グラスを空けながら、潤を見た。
「それじゃあすまないだろう?」
「まあな。いつまでもって訳にはいかないが、できるだけこうしていたい」
これは本心だ。
そろそろ親父が黙っていないのはわかっているが、この生活を失いたくない。
「そうか」
それ以上、潤は何も言わなかった。
俺も、鈴木との見合いの結果を聞かなかった。
ただ、人生の半分以上を共に生きた親友との時間は穏やかで、酒だけが進んでいった。
「そういえば、悠里が帰ってきたぞ」
その名前に、また胸が痛んだ。
「ヨーロッパに行ってたんだよな?」
「ああ。親父さんの会社の支店を回ってきたらしい」
へえー。
「呼んでもいいか?」
「いや・・・」
長いつきあいの俺たちはお互いの扱い方に慣れている。
どういう言い方をすれば相手が怒って、どう切り出せば断れなくなるのかがわかっている。
「あいつもお前に会いたがっているし」
「・・・」
もう、反論はできなかった。
ピコピコと携帯を操作する潤を見ながら、俺なりに覚悟を決めた。
いつまでも逃げるわけにはいかないらしい。
***
「こんばんは」
1時間ほどして彼女がやって来た。
肩まで伸びた眺めのウエーブは明るいブラウン。
ナチュラルメイクながら、はっきりとした顔立ちと大きな瞳が意志の強さを覗わせる。
本郷悠里(ほんごうゆうり)は、その強い目力で真っ直ぐに俺を見た。
「久しぶりだな」
他に言葉が見つからなかった。
本当ならこの場に土下座をしてでも謝らなければいけないはず。
俺は悠里にそれだけのことをした。
「随分元気そうね」
嫌みなのか、本気なのか、悠里は俺の顔をのぞき込んで笑って見せた。
「ああ」
元々美人だったけれど、大人っぽさが加わった悠里は素敵な女性になっていた。
『綺麗になったなあ』と言いかけて言葉を飲み込んだ。
そんな軽口を叩くのは不謹慎な気がした。
「俺、ちょっと電話してくるわ」
潤が席を立った。
「気を使わせたわね」
「ああ」
あいつなりに、俺たちのことを心配してくれているんだと思う。
「8年ぶりね」
「ああ」
「・・・」
不意に、悠里が目頭を押さえた。
「ごめん。突然連絡を絶ってしまって、申し訳なかった」
やっと、謝罪の言葉を口にした。
「本当よ。付き合っていたはずの男がいきなりいなくなって、面食らったわよ」
「すまない」
「仕方ないわ。それだけのことがあったんだから」
悠里は感慨深そうに俺を見る。
***
「すまない」
「もういいって。そんなに謝らないで。鷹文らしくないでしょ」
「すまない」
もう、同じ言葉しか出てこない。
「あのプライドの高かった鷹文が、住所も学校も携帯もすべて変えて、別の人生を歩こうとしたんだもの。それだけの覚悟があったんだと思うし、そうしないといけない状況だったってことでしょ?」
「ああ」
確かに、あの頃の俺は壊れていた。どうやって日々生きていたのか、記憶がない。
「苦労したのね」
悠里が俺の手に自分の手を重ねた。
温かい手だ。
付き合っていた頃、『私、平熱が高いから手が暖かいの』って言っていたっけ。
「本当に、すまなかった」
自分の声が震えている。
8年前の俺は人として未熟で、周りの人間を気遣うこともできず、自分自身をもてあましていた。
悠里や潤の前から消えた俺は、引きこもりのような生活を1年半ほど過ごした後やっと社会に戻ることができた。
「もう、昔話はやめましょう。私は今、鷹文に再会できたことに感謝しているのよ。わかる?この気持ち」
「いや」
わからない。
突然姿を消した男のことなど、恨んでくれて当然なのに。
「まあいいわ。飲みましょう。今夜は8年ぶりの再会を記念して朝まで飲むわよ」
すでに2杯目のグラスを空けようとしている悠里。
あれ?悠里ってこんなに酒が飲めたっけ?
いつも弱めのカクテルをチビチビやっていたイメージしかないが。
「ちょっと、そんな顔して見ないで。人間変るのよ。6年以上社会人していれば、お酒だって強くなるし、お世辞だって、キレイごとだって言えるようになるの」
「そうか・・・」
俺の知っている悠里のままじゃないって事だな。
その後、戻ってきた潤も交えて明け方近くまで飲み続けた。
午前中休みを取っていた潤以外は数時間後に勤務に就かないといけないと知りながら、懐かしい時間を過ごした。
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