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Side 青
『数年前に、車で事故に遭ったんです』
彼の文章を見て、くっと喉の奥のほうが動く感触があった。びっくりして思わず声が漏れたのかもしれない。
『脳に損傷を受けて、ブローカー失語っていう失語症になって。喋れないなんて嫌だし、苦しかった。だからリハビリも頑張ったんですけど、単語がちょっと言えるくらいで』
その苦しみを想像しようとした。でも、「話せる」という前提がまず俺にはないからわかりきることはできなかった。
『口で話せないなら、ほかの方法で話そうと思って手話サークルに通い始めたんです。でも、周りはほとんど聞こえない人か喋れる人で。俺は蚊帳の外みたいで、すぐ無理だなって』
確かに、と思った。俺も通っていた大学のサークルでそういうのに入ったけど、ろう者と健聴者しかいなかった。
だけどそういう決めつけもよくないな、と感じる。手話がもっと色んな人に広まるといい。
『だけど、今はスマホがあってすごいありがたいなって。俺、打つのと読むのならできるから便利なんです。それでも、大学とか街でふつうに話してる人見ると羨ましくなっちゃう』
俺は小さくうなずいて、『わかります』といった。
『ほんとわかります。スマホって俺らにとっても便利なんですよ。手じゃなくて文でやりとりできるし』
同じろうの人意外にも通じ合える人がいて、何だかすごく嬉しかった。
『俺は生まれたときから耳が聞こえないけど、話すのってどんなのだろうなとか、音楽ってどんなんだろうってたまに思います。でも文字があってありがたい』
文字があること、それが見えることを俺は最近やっとありがたいことだと思うようになった。それも幸せなことだ。
ふと楽しいことを思いついて、スマホの液晶画面の上で指を滑らせる。
『そうだ。俺、手話教えましょうか?』
え、とでも言うように彼が凝視してくる。
『お話ししたいんです』
彼は考えているのか、店の外に目をやった。雨は朝から降り続いている。そしてスマホを手に取り、両手で操作する。
『雨ってどうやるんですか?』
ああ、やっぱり雨を見ていたんだ。俺は妙に納得して、「雨」という日本の手話をする。
彼も倣い、満足そうにうなずいた。そして俺も尋ねる。
『雨の音ってどんなのですか』
聞いたことがない音。言葉だけじゃ足りないと何度も思った。
『弱いときにはパラパラとか、ぴちゃぴちゃとか、強く降ってるときにはザーザーとか。色々あるんですよ。
強いときは不安にもなるし、弱いときは落ち着く音なんです。音と気持ちが連動してるっていうか』
色々というのがどのくらいあるのかわからなかったが、雨音で気持ちが変わるというのは初耳だった。少なくとも、彼はそう感じているのだろう。
『雨を表す熟語もいっぱいありますしね。俺、日本語が好きなんです』
そうだよね、と言うように彼は笑って首肯してくれた。
ふと、俺の目が時計を捉えた。その時刻は彼女との約束の15分前になっている。
話も楽しいけど、行かなきゃ遅れる。
彼に向けて「時間」という手話をしてドアを指さす。念のため文字にすると、彼は微笑した。
まだ残っていたコーヒーを飲んで、立ち上がった。本をリュックにしまう。
会釈で挨拶して去ろうとしたところ、彼に肩をたたいて止められた。
『またここで会えたら、手話教えてほしいです。お名前だけ訊いていいですか』
もちろんだ。俺は笑って自己紹介をする。それから文で伝えた。ほんとは樹って書くんだけど、それを説明してたら長くなる。
あなたは、と訊くと『森本慎太郎です』と返ってきた。
『じゃあ、名前の手話はまた今度教えようかな』
じゃ、と手を軽く振って店を後にした。
傘立てから傘を抜き取り、灰色の空に向かって広げる。
今はそんなに雨脚が強くないから、「パラパラ」だろうか。
いつか森本さんと手話で話せる日が来たら、色んな音のことを聞きたい。
それまでは……俺は今日も、無音の世界に言葉を交わす。
終わり