テラーノベル
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夜。
清朗の部屋に、灯りが一つだけ灯っている。
卓の上に、荷物が散らばっていた。衣、竹簡、印。少ない。これだけで、遠方へ行く。
清朗は、荷をまとめていた。
手が、震える。
止まらない。
(……香が、ない)
縫季が持って行った。あの小壺を。
清朗は荷から手を離し、小箱を開けた。空だ。分かっていた。それでも、手が動いた。
壁際の棚を確かめる。衣の間を探る。荷をひっくり返す。
ない。
清朗は立ったまま、壁に手をついた。
息が、浅い。額に汗が滲む。胃の奥が、波打っている。
吐き気だ。
清朗は奥歯を噛んだ。飲み込む。堪える。
しばらく、壁を掴んだまま動かなかった。
波が引いた。
清朗は息を一つ吐き、壁から手を離した。荷をもとに戻す。震える指で、衣を畳み直す。
そのとき。
扉を叩く音がした。
「書付をお届けに参りました」
低い声。聞き覚えがない。
清朗は扉を開けた。
宗正府の印が入った衣を着た使いの者が立っている。
その者が清朗の顔を見た。一瞬、目が細くなる。
汗で髪が張りついている。顔色が悪い。手が震えている。
使いの者は小さく息を吐いた。声に出さない。だが、口元が微かに動いた。
――やはり。
そういう顔だった。
身の程を弁えない者の末路を確認した、という顔。
「宗正府少卿、子嘉様よりの御達しにございます」
竹簡を差し出す。手つきが、雑だった。王族の側仕えに渡すときの丁寧さが、ない。
清朗は竹簡を受け取った。使いの者が、頭を下げて去る。頭を下げながら、散らばった荷物を一度だけ見た。そして、何も言わずに扉を閉めた。
清朗は竹簡を開いた。
宗正府少卿、子嘉。
その名前が、冒頭に大きく記されていた。
清朗の手が止まった。
(……子嘉)
「王族の側に血の薄い者を置くな」「素性の知れぬ者が侍るなど本来あり得ぬことだ」
宴の席で、政の場で、何度もそう言ってきた男だ。帝辛が変えようとしている世界を、頑として認めない男だ。
縫季が、この男を使った。
帝辛の名では通せないから。だから、子嘉を使った。
清朗が最も嫌う論理を持つ男を。
竹簡を握る手に、力が入る。
帝辛が否定しようとしている世界の論理で、帝辛を守ろうとした。
あの使いの者の目が、頭に残っている。
――やはり。
俺は、あいつらにとってそういう人間だ。血が薄い。側にいるべきではない。
そう処理された。
清朗は竹簡を床に叩きつけた。
「……許さない」
声が、静かな部屋に落ちた。
それだけだった。それ以上は、出なかった。
清朗は座に腰を沈め、両手を膝の上に置いた。震える右手を、左手で押さえる。押さえても、止まらない。それでも、押さえ続ける。
頭痛が、こめかみを叩き始めた。
吐き気がまた来る。
清朗は目を閉じ、奥歯を噛んだ。息を、ゆっくり吐く。一つ。もう一つ。
波が、引く。
目を開ける。
床に落ちた竹簡が、灯りを返している。子嘉の名前が、そこにある。
縫季はそれを知っていて使った。清朗が嫌う言葉で、清朗を追い出した。
(許さない)
その言葉を、もう声に出さなかった。飲み込んだ。胸の底に沈めた。
清朗は立ち上がり、荷の続きに取りかかった。
衣を畳む。竹簡をまとめる。印を布で包む。
手が震えている。頭が痛い。胃がまだ波打っている。
それでも、手を動かした。
荷をまとめながら、外を一度だけ見た。
王太子府の灯りが、遠くにある。
清朗はすぐに視線を戻した。
見ていると、手が止まる。
荷を結ぶ紐を、震える指で引いた。きつく。もう一度。
結び目が、歪んだ。ほどいて、結び直す。
また、歪んだ。
清朗は三度、結び直した。四度目で、ようやく形になった。
部屋の灯りが、風もないのに揺れた。
清朗は荷から手を離し、戸を少しだけ開けた。
夜の風が入る。冷たい。
「……殿下」
声は、風に溶けた。
それだけだった。
清朗は戸を閉めた。寝台に横になる。
眠れないのは分かっている。それでも、横になる。
目を閉じる。
震えは、止まらない。頭痛も、吐き気も、まだある。
清朗は右手を左手で握ったまま、天井を向いていた。
声は出さない。
泣かない。
ただ、堪える。
夜明けが来るまで。
コメント
1件
いやあ……冒頭から「香がない」で清朗の震えや吐き気が克明に描かれていて、もう読んでるこっちまで息が詰まりそうでした。あの、手が震えて結び目が何度も歪む場面、すごく細かくて心に残りました。縫季が清朗の最も嫌う論理を持つ子嘉をあえて使った、という構造も、二人の関係のねじれを感じさせてぞっとする。清朗が「許さない」と声に出したあと、飲み込んで胸の底に沈める選択も、彼の苦しみと矜持の両方を感じさせて……。この先、どう展開するのか本当に気になります。
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