7
神社の境内はしんと静まり返っていた。
不思議なことに、石の鳥居を抜けた瞬間、それまで鳴き喚いていた蝉の声が、一斉に聞こえなくなったのだ。
それだけじゃなかった。車の走る音、木々のざわめく音、道行く人々のわずかな声さえ、全く聞こえてこない。
完全なる静寂の中、私はアリスさんの後ろをついて歩いた。
アリスさんは、まるでそれが当たり前であるかのように、その変化を特に気にするふうでもなく、本殿と手水小屋の間の細い通路へと足を向けた。
そこで日傘を畳み、軽くお辞儀をしてから裏手の祠へとたどり着いて、
「――こんにちは」
微笑みを浮かべながら、祠の下に蹲っている、その動物に声をかけた。
私は立ち止まり、じっとその動物を見つめながら、
「きつね……?」
思わず口に出していた。
その狐の毛はボサボサで、身体はやせ細り、どこか弱々しく見えたけれど、その瞳はとても力強く、私の顔を睨みつける。
そんな狐に、アリスさんは訊ねた。
「久しぶりの外界は、いかがでしたか?」
すると狐はどこか疲れたように深い深いため息を吐いて、
「あまりにも五月蠅うて、辛抱たまらなかったよ」
それから気だるそうに頭をもたげ、
「折角人の世に出られたのだ、どれ、悪戯のひとつふたつでもしてやろうと思うたのだがな。子供には追い回されるわ、鉄の塊はあっちこっち走り回っとるわ、どこへ行っても人の声がして喧しいわ、散々だった。封じられていた間、ここからずっと村の成れを見ていたのだがなぁ。何とも、我々にとって住みにくい世になったものよ」
そうですね、とアリスさんは小さく頷き、喋る狐の姿に呆気に取られている私に顔を向けると、
「こちらの狐さんは、今から数百年前にここに封じられた、いわゆる妖怪さんなんです」
「よ、妖怪……? 封じられた?」
何を言ってるんだろう、この人は。そんなの、漫画やらアニメの世界だけの話でしょ? 現実にそんなの、いるはずが――
狼狽え、一歩あと退る私に、狐は可笑しそうにひと笑いして、
「まぁ、そうであろうな。信じられるはずがない。だが、信じる必要もない。所詮、お前と我々は住む世界が異なっている。見ている世界が違う。重なってはいるが、よほどのことがない限り交わることもない。そういうものだ」
ワケが解らなかった。解るはずもなかった。これはいったい何なんだろう。どういう仕掛けなんだろうか。狐が喋っている? そんなはずはない。きっと誰かがすぐ近くにいて、狐の口の動きに合わせて喋っているだけなんだ。そうに違いない。だって、あり得ないじゃない、こんなこと。
「……大丈夫ですか?」
アリスさんが私の顔を、心配そうにのぞき込んでくる。
それを見て、狐はもう一度大きく笑った。
「仕方ない。よく見ていろ」
そう狐が口にした時には、すでに変化が始まっていた。それはとても滑らかで、違和感なんてなくて、きっとあっという間の出来事だったんだろうけれど、何だか妙にスローモーションな動きに見えて。
狐の毛がわさわさと逆立ったかと思うとそれはいつの間にか髪の毛になり、山吹色の薄汚れた和服になり、前足と後ろ脚がぐんと伸びたかと思うと四足歩行から二足歩行へと変化して、その顔はにゅるにゅると狐のお面――私が昨日見た、あの偽物のお母さんや弟がつけていたお面と同じものだ――へと変化していった。
そしていつの間にかそこに立っていたのは、年老いた狐ではなくて、ぼさぼさ髪で狐の面を被った、少し薄汚れた感じのお爺さん、だったのである。
「こちらの姿の方が、少しは落ち着いて話ができるかな?」
そう言って、狐面のお爺さんはくつくつ嗤った。
前足――今となってはもう腕だけれど――を組んで、祠に軽く体を預けるように、狐面のお爺さんは私を見る。
私はそんなお爺さんを指さしながら、アリスさんに顔を向け、
「なんなんですか、あれ。狐? 噓ですよね?」
そんな私に、アリスさんは困ったような微笑を浮かべて、
「――えっと、信じられないでしょうけれど、本当です。齢数百年を経て、あの方は化け狐と成ったんです」
よわい、すうひゃくねん。
「もちろん、すべての狐が成れるわけではありません。もともと力のあるものだけ、あのように人の形に化けたりできるんです」
「妖怪になる、ってこと?」
そうですねぇ、とアリスさんは口元に指をあてて、言葉を選ぶようにしながら、
「妖怪、と私は言いましたが、そもそも妖怪というのは私たち人間から見た、彼らに対する総称でしかありません。わかりやすく妖怪とご説明しましたけれど、あの方は今も間違いなく狐さんです。ただ、他の狐さんたちと違って、もともと生まれながらに力をお持ちだったんです」
「力って、いわゆる妖力、みたいな……?」
「名前などどうでもよいのだ」
突然、狐面のお爺さんが話に割って入ってくる。
「名前など、それをどう呼ぶかという便宜的なものでしかない。そこの魔女のもつ魔力と同じだ。魔女や魔法使い、巫(かんなぎ)、そういった類の奴らの使う力を魔力と呼び、地に宿る力を地力、我々が使う力を妖力などと呼んでいるだけで、結局は同じものなのだ。儂はその力を、生まれながらに自在に操ることができた。鍛錬に鍛錬を重ね、それ、こうして人に化けることもできるようになったのだ」
狐面はどっかと地面に胡坐をかくと、私たちを見上げながら、
「もともと、力持つ者は長命でな。特に力の強かった儂が、たまたま数百年生き、化け狐などと呼ばれるように至っただけに過ぎないのだ」
わかるような、わからないような。果たして、ここでこの現実を認めてしまって大丈夫なんだろうか。
わずかな不安を感じながら、私はふとした疑問を口にした。
「……さっき、封じられたって、言ってましたよね?」
「そうだな」
「いったい、それは、どうして……?」
ふふん、と狐面は笑い声を漏らし、そしてこくりと頷くと、
「そうだな、お前には私の封を解いてもらった恩義がある。話してやろうじゃないか」
言って、身の上話を語り始めた。
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