居間からは、来客である沼田と岩崎の怒鳴りあいのような話し声が流れている。
「そこをなんとか!」
沼田が繰り返し叫ぶ。
台所にいる月子は、沼田の雄叫びのような懇願が聞こえるたび、その声の大きさにびくりと肩を揺らした。
岩崎共々、声の大きな二人が話しているために、月子の耳にも会話が流れんでくる。
沼田は、昨日の発表会に訪れていた新聞記者二人組の片割れで、岩崎の演奏を聞き、これはいけると思ったそうだ。
元々、二代目が連れてきた縁から、岩崎を紹介してくれと、案内させたようだった。
茶の準備をする月子の側では、お咲が、なんとか落ち着きを取り戻し、新聞で見たんだと、言っている。
そういえば、沼田は、その新聞社の人間で、お咲が受け取った新聞をもって居間へ行ってしまった。
岩崎の演奏と新聞は、何か関係があるのだろう。これはいけるとは、岩崎の演奏のことだろうか?
「でね、しんぶんのお兄ちゃんが、お咲ちゃんがでてるよって!」
「え?」
月子は支度の手を止め、お咲を見る。沼田の用件はなんなのか考えているところへ、お咲が、ポツリポツリと語るため、月子の思考は、混乱していた。
「月子様!新聞にお咲と旦那様もでてた!」
「ああー、それで、びっくりしたのね?」
「うん。お咲じゃないみたいだった。お咲、月子様に見せたくて、急いだら、ぞうりが脱げなくて……」
「それで、足がもつれて、転んじゃったのね?だから、廊下でうつぶせだったんだ……。でも、お咲ちゃん、痛かったでしょう?怪我していない?」
「わかんないけど、痛い……」
確か、劇場には、沼田とカメラマンが一緒だった。執拗に写真を撮っていたから、朝刊に記事として掲載されたのだろう。それを、新聞配達員に教えてもらい、お咲は、皆に見せようと慌てて家へ入った。
そして、あの惨事、ということか。
岩崎が思い込んでいた、突き飛ばされただ、いさかいが起こっただ、ではなくて良かったと月子は思う。
「でも、新聞とられちゃったよ」
お咲がしょんぼりと言う。
「大丈夫。お客様が帰られたら、ゆっくり見ようね?」
うんと、お咲が頷く側から、
「月子!!!」
と、岩崎の大声が流れ込んでくる。
「居間に来なさい!大事な話しがある」
「は、はい!」
丁度、茶の用意が出来たと月子は盆を持ち立ち上がる。
「お咲ちゃん、歩ける?一緒に行きましょう。お咲ちゃんは、お話が終わるまで、お部屋で待っていてくれる?」
「わかった!」
すっかり、いつも通りに戻ったお咲は、元気良く返事した。
廊下を歩み、お咲は、岩崎の部屋から自分の部屋へ向かう。それを見届けた月子は、恐る恐る居間へ入った。
話があるとはなんだろう。
月子は、おずおずと、腰を下ろし、茶を配る。
ちらりと、二代目を伺うが、うーんと、一人で唸っていた。
「ああ、月子。すまないな……こちらの、新帝都新聞の沼田さんが……」
「ええ、岩崎先生の腕なら、リサイタルも、引っ張りだこ間違いなし!ちょっと、忙しくなるけれど、それも、仕事と思ってくださいよぉー」
などと、沼田が、勝手に割り込んで、これからのことらしき事情を語った。
「ああー、つまり、その、月子ちゃん。京さんさぁ、新聞社にドサ回りさせられるんだわー」
二代目が補足してくれたが、月子は余計わからなくなった。
「二代目!ドサ回りとはなんだ!独演会、リサイタルだっ!!」
つまり、と、ぽかんとしている月子へ岩崎が順を追って話してくれる。
昨日の岩崎の演奏を見て、新帝都新聞主催で岩崎の独演会を開きたいとの誘いだと。
沼田は、単純に、花園劇場で開けばよいと思っているようだったが、それを岩崎が反対していた。
劇場もだが、様々な学校の講堂でも演奏したい。音楽の普及になるとは、岩崎の考えで、それでは、どこに儲けが出るのか、とは、二代目の考えで……。かれこれ言い争ったようだった。
「まあ、そこは、社内で調整しましょう!基本、うちは、新聞購読の宣伝と考えてますから」
わははは、と、沼田が豪快に笑う。
「だから、それだと、単なるドサ回りだろ?なんか、京さんの演奏とは、違うような急がするんだよー」
二代目は、腕を組み考え込んでいる。
「継続的に、演奏会を開く。これが、こちらの絶対条件だ。そうだなぁ、年間契約という形をとるのが良いだろう」
「年間契約?!」
岩崎の言い分に、沼田は驚いている。
「定期的に演奏会を開けば、そちらの新聞社の宣伝も確実性がでるんじゃないのか?一度や二度の宣伝で、新聞が売れるとでも思っているのか?」
はあ、まあ、と、沼田は渋い顔をして岩崎へ答えた。
「残念ながら、話はまだ仮のものですしねぇ、継続的というか、年間契約となると、上の許可が必要ですし」
どうやら、沼田は、半ば思いつきでやって来たようで、話の雲行きは怪しくなっていた。
「まあ、いいさ、欧州《ヨーロッパ》帰りの男爵の独演会だ。何も、そちらの新聞社でなくとも、もっと大手へ持ち込めば良いだけの話だろう?」
今度は、岩崎が、ははは、と大きく笑う。
「い、いや、ちょっと待ってくださいよ!わかりましたからっ!出来るだけのことはやりましょう!ただ、上の許可が必要なんです。だから、少し待ってもらえませんか?!その間、他社への鞍替えは勘弁してください!田口屋さん!先生が、抜け駆けしないよう、見張っててくださいよぉ!」
そうと決まれば、と、沼田は立ち上がり、また来ますと帰って行った。
「あ、あの、お茶を……」
月子が一声かけるが、岩崎が微笑む。
「月子、そうゆうことだ。どんな形であれ、リサイタル、独演会を開ければ、演奏者として一人前と言っていいだろう。これで、堂々と、月子と祝言を挙げることができる」
「……祝言……」
岩崎は月子と一緒になる為、沼田の話に乗ったという事なのか。
月子は、なんだかおもはゆくなり、俯いた。
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