◇◇◇
今日は彼女がコウカとして生まれ落ちた記念日だ。そんな日の夜にコウカはヒバナただ1人を呼び出していた。
「ごめんなさい。どうしても2人きりでちゃんと話をしたくて」
「そんなのはいいわ。話って何?」
訝しげなヒバナの視線を受け、コウカは襟を正す。
そして彼女はヒバナの顔をまっすぐ見据えると直角に体を折り曲げた。
「すみませんでした、ヒバナ!」
「……謝罪はさっき聞いたわ」
「それでも謝らせてください。何度も傷つけたこと、そしてちゃんとあなたと向き合っていなかったことを」
頭を下げるコウカを見下ろすヒバナの表情はやや硬い。
彼女は左手で自分の右肘を握りしめた。
「……どうして私なの? それは私たちのうちの誰にでも当てはまるわ」
「もちろん一人一人にちゃんと謝ります。でもヒバナを最初に呼んだのは……多分ですけど、一番傷つけて泣かせてしまったのがヒバナだったから」
眉間に皺を寄せたヒバナが震える右腕をさらに強く握りこむ。
「赦してくださいなんて、とてもじゃないけど言えません。あなたの心を傷つけ、あろうことか剣を向けようとしたわたしを姉だと思えなくても当然です。でも近くにいることだけは……そばであなたのことを守ることだけは許してくれませんか」
ヒバナの視線を向ける先。そこにはスカートの裾をギュッと握りしめるコウカの手があった。
それを見ながら思いに耽るような表情をしていたヒバナはやがて、決心したかのように口を開いた。
「顔を上げて……コウカねぇ」
バッと勢いよく顔を上げたコウカの表情は驚愕に染まっている。
「今なんて――」
問い掛けようとしたコウカの顔目掛けてヒバナが手を伸ばす。そして左手、右手とその手をコウカの頬に当てて挟み込むと、その顔を持ち上げて自分から顔を近づけていった。
お互いの吐息が感じられるほどの距離で見つめ合う2人であったが、やがてそれはヒバナが軽く突き放すようにコウカの頬から手を離し、自分の口元を腕で覆い隠したまま離れてしまったことで終了となる。
「ヒバナ……?」
「……やっぱり、許せるわけないわよね」
「――ッ!」
その言葉にショックを受けるコウカであったが、ヒバナが浮かべている慈しむような笑みが腕の隙間から見えて、理解が追い付かなくなる。
そんなコウカのどこか間の抜けた顔を見て、ヒバナはフッと鼻で笑った。
「守ることだけは許してくれませんか、ですって? そんな一方的な関係、許すわけがないでしょ。そんな関係が許せるような時期はとっくに過ぎてるの」
「えっと……」
「あーもう、まどろっこしい! ……私たちは家族なんでしょ? ユウヒが教えてくれたそれはそんな一方的な関係なんかじゃなかったはずよね――お姉ちゃん?」
「お、お姉ちゃん……」
呆然とするコウカの瞳が揺れる。そしてジワッと両目から涙が溢れだした。
それにはヒバナも思わず、ギョッとする。
「なんで泣くのよ……」
「だってぇ……もう、あなたの姉にはなれないと……思っていたから……」
「……バカ。最初は強引に押し付けてきたくせに。今さら弱気にならないでよね」
そう言って、ヒバナは泣きじゃくるコウカの顔を胸に抱き込んで慰める。
泣き止んだコウカとヒバナは芝生の上に並んで腰を下ろしていた。
そして互いに意味もなく星空を眺めているとヒバナがある秘密を打ち明ける。
「……実はね、私も謝らないといけないことがあるの」
「それはわたしに……ですか?」
ヒバナは頷く。
「コウカねぇに剣を向けられそうになったわよね。でもそれよりもずっと前に私もコウカねぇに杖を向けたことがある」
「えっ!?」
自分が剣を向けようとしたことを思い出して、すっかり沈み込んでいたはずのコウカが今度は仰天する。
「……怖かったのよ。別人のように冷たい目をしたコウカねぇのことが」
「冷たい、わたし……?」
「ユウヒのことしか見ていないコウカねぇと一緒に、凍えるような目をするコウカねぇもいた。それがいつか私のことを何とも思わずに切り捨ててしまうんじゃないかと思ってしまったの」
語り続けるヒバナとそこから何かを思案するコウカ。
……そうして答えを見つけたのか、コウカは顔を上げてどこか不安そうに俯いていたヒバナの肩を抱き寄せた。
ヒバナから悲鳴が上がるが、コウカはその手を退かせようとはしない。
「怖がらせてしまってごめんなさい」
「こ、こう、コウカねっ……!?」
「実を言うと、わたしにも心当たりがあります」
「ふぇっ?」
顔を真っ赤にして間抜けな返事しかできなかったがヒバナにはそれを気にする余裕はなく、コウカ自身も特に気にはしていなかった。
赤い顔のまま固まったヒバナにコウカは語り始める。
「ヒバナとシズクはわたしたちと出会う前の話をしてくれました。だから、わたしもヒバナに話したいと思います。世界に意味を見出せなかった頃のわたしのことを――」
それは暴力的な世界を垣間見て、恐怖を抱いた自分と何もない灰色の世界に直面して生きる理由を見つけられずにいた頃の話だった。
そして最後にコウカは大切な存在を守ることを自分の生きる意味としたのだと語った。
その本質を見失い、時が経つごとに歪んでいって、眷属という形に拘るようになったことも。
「多分、冷たいわたしの正体は色のない世界に取り残されてしまっていたわたしの心です。その世界を思い出す度にわたしの中で何かが変わってしまっていた」
「……今は?」
不安そうに見上げてくるヒバナの視線に気付いたコウカが彼女の不安を和らげるために微笑みかけ、抱き寄せるために肩を掴んでいた手をそっと彼女の頭まで持っていく。
少女の赤い髪を撫でながらコウカはその問い掛けに答えた。
「今はもうわたしの心はそこにはありませんよ。そんなこともあったな、くらいのもう過ぎ去っていったものでしかなくなりました。きっと、みんながわたしの世界に色を見つけてくれたからです。みんなのおかげでわたしは前を向くことができたんです」
気付くまでに時間が掛かり過ぎてしまいましたが、とコウカは寂しそうな顔で締めくくった後に苦笑する。
「……コウカねぇはユウヒのことばかり見ていたから。でも今は私たちのことをまっすぐ見つめてくれる」
「集中したら極端に視野が狭くなる……ライゼの言った通りでした。やっぱりわたしとヒバナは対照的です。マスターしか見えていなかったわたしと違って、ヒバナはいつもわたしたちみんなのことを考えてくれていた」
自虐のような言葉であったが、実際に受ける印象としては唯々前向きなものだった。
それはコウカの目が淀みなく、まっすぐヒバナを見つめていたからだろう。
「相手を思いやり肯定しているからこそ、その間違いを否定する時だってある。生きる限り、わたしたちはそうやってお互いに支え合っていくんですよね」
「コウカねぇ……」
肯定の言葉をただ押し付けるだけだったコウカ。だがそれは表面上、相手を肯定していたとしても自分本位な想いでしかなかったのだ。
生きている限り誰しも間違いを犯すことがあり、それを正してやるのは大抵周囲にいる者だ。
だが倫理的に正しいことが相手にとっても正しい道だとは限らない。相手の望むがままに事を進めることが正しいこととも限らない。
自分の心に嘘をついて行動してしまうことだってあるのだ。
正しい道など本当は誰にもわからないものだ。個々が抱く正しい道のイメージも同じものを目指しているようで少しずつ違うことだろう。
でもそれでいいのだ。全く同じ存在などいない。
だからこそ、一緒にいることに意味が生まれるのだから。
大切なのは互いが互いを想う純粋な気持ち――いわば愛なのだ。
「……対照的なんかじゃない。コウカねぇが持ってる私たちへの気持ちと私がコウカねぇたちに抱く想いはきっと同じようなものなの」
熱い想いが込められた瞳がコウカを射抜く。
「一度しか言わないわ。大嫌いなんて嘘……本当はあなたのことが好き」
そこでヒバナは目を閉じ、ここにはいない大切な人たちの顔を思い浮かべる。
「コウカねぇだけじゃない。ユウヒもノドカもダンゴもアンヤも。もちろんシズもよ。みんなのことが大切で、これからもずっとみんなと生きていきたいと思ってる。この関係の中から……私たちの居場所から誰にもいなくなってほしくないの」
そこで目を開いたヒバナは再度、コウカの目をじっと見つめる。
「多分、私が抱いているこの気持ちは、人が“愛”と呼んでいるもの。コウカねぇの心にあるのもきっとそうよ」
「愛……これが……」
胸の前で握りしめた右手を左手で包み込んでそう語るヒバナの顔には自然と笑顔が浮かんでいた。
「私はあなたたちを愛している。だからコウカねぇが私をちゃんと見てくれて嬉しかった。私を……私たちを家族だって言ってくれて嬉しかったの。ユウヒが家族というものを教えてくれて、コウカねぇがこの温かくて愛しいものにちゃんとした名前を与えてくれた」
胸の内から溢れ出てくる彼女の想いは止まることを知らない。
そして今の彼女はそれを止めようとすら思ってはいなかった。
普段から口にするほどの勇気はまだ持てないでいたが、コウカと向き合えた今日という日がそれを後押ししてくれた。熱に浮かされているだけとも言える。
「言っておくけど、コウカねぇが今の私になるきっかけをくれたのよ。私とあの子しかいらないと思っていた私たちの世界からこの世界に、私たちを引きずり込んだんだから」
「えっ、わたしがですか?」
ヒバナの熱い想いに呆けていたコウカが仰け反りそうな勢いで驚く。
まさか自分がそれほどの影響を彼女に与えているとは思っていなかったのだ。
「コウカねぇが最初にくれた言葉、覚えてる?」
「……はい、もちろん」
――意味のある生き方を。
言葉が重なり、共に笑い合う。
一頻り笑った後、コウカが穏やかな声で問い掛ける。
「意味は見つかりましたか?」
「ええ。みんなと一緒に生きていくことが私の生きる意味よ」
「わたしと同じですね」
その言葉を聞いて、ヒバナが悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「あら、眷属としてただ服従して生きるのがその意味だって言ってなかったっけ? ずっとコウカねぇの言葉に憧れて、支えにしていたのに……あの時は傷ついたな……」
「うっ、それは……」
「……ふふっ、冗談よ。もうコウカねぇはあんなこと微塵も考えていないみたいだから、綺麗さっぱり水に流してあげる」
「……水に流す? 水に流すのはシズクじゃないですか? そもそもどういう意味です?」
「ユウヒが教えてくれたけど、たしか――」
星の降る夜。肩を寄せ合った2人はこれまでの溝を埋めるかのように語り合う。
それは彼女たちがこれまで過ごしてきた中で最も和やかな2人だけの時間であった。
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