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私
にとってそれは、「死」だった。
命の終わりは、ひとつの転機であったのだ。
私の人生における「死」の意味について考えてみることにする。
「死」とは、生命活動の維持が不可能になった状態をいう。
「死」を迎えるということは、意識を失うということである。
つまり「生きている」状態から「死んでいない」状態になるということであり、これは「生きる」こととほとんど変わらない。
「死んだ」あとの状態はふたつにひとつしかない。すなわち「魂が存在する」「存在しない」。
死んでいるのか生きているのかわからない状態というのはありえないから、「魂は存在しない」という結論になる。
では、「魂が存在しない」場合の死とは何か。
それは「自分が誰かわからなくなる」ことだ。
魂の存在について、さまざまな議論がある。たとえば「肉体と分離した精神は、それ自体で存在することはできない」とする考え方もある。つまり、魂というものはあるにせよ、人間の脳のなかにあるのではなくて、どこか別のところに存在しているのだという考え方である。
また、霊界の存在は否定されてはいないものの、人間が死後行く場所としては考えられていない。しかし、霊魂というものが存在すること自体は認められている。
いずれにせよ、人間の死後の世界については多くの意見があり、まだ決着はついていないようだ。
こうした死後についての見解のうちのひとつに、「死はあらゆる生物にとって平等である」というものがある。すべての生き物は死んで土へと還るが、人間だけは特別な存在だとされてきた。しかし最近では、多くの科学者たちが「人間の肉体を構成する細胞は、死んだらすべて消滅する」「細胞が死ぬとき遺伝子情報が伝達されて新しい体が作られて生まれ変わることはない」という事実を明らかにしている。つまり、人間だけが特別ではないのだ。
また、医学的な見地からすれば、心臓が停止して脳が働かなくなると、血液中の酸素濃度が低下していき、やがて呼吸不全に陥って死亡すると考えられているようだ。ただしこの説が正しいとすれば、地球上のほとんどの動物は窒息死した時点で生命活動を終えることになるはずなので、必ずしも当てはまるわけではないだろう。
魂の存在についても科学的に証明されつつあるらしく、霊能力者の中には自分の目で死者を見ることができる者もいるそうだ。そうした超常現象のほとんどは、科学では説明できないものばかりであるらしいのだが――。
「…………」
目を開けたまま、私は息を止めていた。
目の前にあるものが信じられなかったからだ。
ここはどこなのか。なぜこんなところにいるのか。
わからないことが多すぎる。
それにしても暑い。汗が全身から噴き出している。
まるでサウナに入っているみたいだ。
私はいつだって、 自分が正しいと信じているからね! だから自分の決断を信じて疑わない。
しかしそれは、常に最悪の結末を迎えることになる。
そうして私はいつも失敗を繰り返すのだ……。
『失敗学』の著者で有名な畑村洋太郎教授はこう語る。
「失敗の原因の大半は、『自分は悪くない』『誰かが悪い』という言い訳です。それではいけません。本当に悪いのは何かを見極めなければなりません。
例えば『雨宿りしたら車が泥だらけになった』とか『お釣りを忘れられた』というような小さなミスは誰にでもありえますよね。それに対して『どうしてこんなことになったのか?』と考えることが重要です」
これはまさに真理だと思うのだが、問題はどうやって考えるかということなのだ。
自分の気持ちはこうだと決めつけてしまいがちだからね。
たとえば、誰かと恋に落ちるとしよう。
それは運命的な出会いかもしれないし、偶然のいたずらによる気まぐれからのものかもしれなかったりするわけだけど、とにかく恋をするのだ。
相手について知りたいと思うだろう。どんなひとなのか、何を考えているのか、どういう生活をしているのか……。
もちろん相手のことを知りたいと願うのは自然なことだよね。
それなのに、いざ知ろうとする段になると、なぜかしらうまくいかないことが多い。
どうしてなんだろうか? 答えは簡単だった。
ぼくたちは、いつも自分が知らない人間に対して抱くイメージをあてにしているからだ。
たとえば、「きみのことをもっとよく知りたいと思っているんだけど、いままでつきあった経験がないんでわからないんだよねえ」なんていうようなセリフを口にしてみたところで、本当のところは相手にだってわかっちゃいない。
つまり、自分の知っている範囲のイメージをもとに、勝手に相手を決めつけてしまっていて、そこから一歩も外へ出ようとしないでいるのさ。
そういう状態はけっこう多い。
たとえば相手がとても魅力的に見えるときがあるとする。しかしそれは、たまたまそう見えているだけであって、じつはその魅力の正体は、実はまったく別のものかもしれないのだ。もしそうだとすれば、相手の魅力というのは錯覚ということになる。
恋をしているときは、「あの人が自分のすべてだ!」なんて考えるものだけれど、冷静になって考えてみると、けっこうそういうケースは多いんじゃないだろうか。自分が相手のすべてを把握しているつもりでいても、実際には知らない部分のほうが多いということだってあるはずだ。
それにしても、どうしてこんな話を持ち出したかというと、ぼく自身がまさにその状態にあるからなのだ。つまりぼくは現在進行形で恋をしており、しかもそれがかなり危険な状態に陥っているからである。そういえばつい先日、友人にも同じ話をしたばかりである。そのときの友人の反応はこうだった。
「おまえさあ、そういう話は女友達とかにしたほうがいいぞ」
どういう意味なのかよくわからないまま、「うん、わかったよ」と答えたのだが、今になって考えるとその言葉の意味がよくわかるような気がしてきた。というのも、最近知り合った女性(仮にA子さんと呼ぶ)は、ちょっと不思議な人だからである。
彼女と初めて出会ったのは去年の六月のことだった。その頃ぼくはまだ大学生で、今は卒業した会社の先輩たちと酒を飲んだ帰り道のこと。ぼくら一行は先輩のひとりの運転する車で帰路についていたのだけれど、途中、A子さんの住むマンションの前で車を停めた。
A子さんの部屋はこのマンションの三〇三号室らしい。部屋の前まで送っていったとき、彼女は「ありがとうございました」と言いながら頭を下げてくれたのだけど、そのときの仕種というのがなんとも可愛らしくて印象に残ったものだ。それはまるで、何かに怯えているかのような素振りにも見えたからだ。
それから一週間ほどして再び彼女と出会ったのは近所のスーパーで買い物をしている最中のことである。たまたま同じ時間帯に店を訪れていて、偶然目が合ったのだ。