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#ワンナイトラブ
俯いていると、薄暗いのにさらに濃い影が目の前に立ちはだかるので縫うように見上げる。
「送るよ」
弧を描いた口は短くそう告げるので、小さく首を横に振る。
「平気です」
「暗いし、危ないだろ」
付き合っていた頃はそんな心配、見せてくれたこと、一度だってないのに。
……今更、何?
「ごめん、早く夕飯の買い物に行きたいから本間さんと話してる暇ないの」
「だったら送るって」
「だから、平気だ、」
次の言葉を待たずして、旺くんは私の腕を、くん、と引いた。
強引に引き摺られて先程降りた箱の元へ身体は舞い戻る。
「ちょ、旺く」
扉が閉まった瞬間に塞がれる唇。鼻先に香る、オリエンタルノートの香り。
壁際に追い込まれて背中がそこにぶつかると、背筋がぞわ、と引き攣る。
掴まれた手首に何とか力を込めるけれどビクともしない。
舌は前歯の隙間を縫い割り込もうとするので咄嗟に顔を背けた。
ガチり、鈍い音を鳴らした硬い異物。瞬間、下唇の一部が熱を帯びて、口の中にじわりと鉄の味が広がった。
「やめて、もうやめて!」
抵抗も虚しく、再び塞がれる唇。
だけど歯を食いしばり、目をきゅっと瞑った。
……なんで、どうして放っておいてくれないの。
勝手なことして、勝手な言い分聞かせて、勝手にまた近寄って、
私の気持ちを無視して、なんでこんなことが出来るの。
『行っちゃだめですよ』
……常葉くんだって、そうだ。
常葉くんの方、向かせてくれないのに。
あんなに可愛い人が、将来は隣に居るんでしょ?
まぶたの奥に、二人の姿がくっきりと浮かんだ。
どうしてだろう、目を瞑っているのに、涙が滲んできた。
悔しいのか、悲しいのか、惨めなのか、自分のことなのに、もう何も分からない。
眠いし、考えたくない。
唇も痛いし、血の味が気持ち悪い。
……どうすれば解放してくれるのかな。
……どうしたら……
渦巻く考えを纏めていれば、この人が再三口うるさく聞かせていた言葉が脳裏を過った。
「…………にもつ」
「取りに行ったら、もう放っておいてくれる?」
口が離れた隙に尋ねれば、彼はふっと口角を上げた。
「……うん、いいよ、それで」
下唇の半分がじわり、鈍い痛みを伴う。
エレベーターはすぐに先程の駐車場へと降り立った。私が先に下りたのを確認すると旺くんは足早に歩くので小走りでついて行く。
……正解だったかな、わかんないけど、これでやっと放っておいてくれるんだ。私の荷物は1箇所に纏めてたから、すぐに見付けて、すぐに帰れる。
でも……そもそも何があったかな。
全然思い出せない。あの家で生活していたことすら、もう随分と昔に感じる。
まとまらない頭で先を歩く黒髪を見上げた。私を見ることも無く、足早なスピード。
毎回追いつくのに、必死だったな。
『隙だらけですよ』
大丈夫だよ、すぐ帰れば何もされない。
それで終わる、もう、終わるんだ。
早く常葉くんのマンションに戻って、地下のスーパーでプリンの材料を買おう。
カツ、カツ、と、ふたつの足音が私の後を追いかける。
……あ、そうだ。今日、水曜だ。
だったら尚更早く帰って、早めに料理仕上げなきゃ。
いつも、何も言わないけど、常葉くん、ちゃんと残さず食べてくれるから
………………だから。
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