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スーパーから自宅までは普通に歩けば十分もしないで帰れる距離だ。しかしその倍の時間をかけても辿り着くことができなかった。
吐き気により歩くペースが遅かったせいもあるが、もっと大きな問題。
自宅までの道のりを忘れた。
何十回、何百回と歩いた道。それを忘れて自宅に帰れない。途中、恐ろしさのあまり何度か叫びたくなった。家族に電話して、いや、先に病院に行って頭を診てもらおうとも思った。
しかしその直前、かろうじて白露のことを思い出す。自分がものを忘れていくのは病気でも何でもなく、彼の世界に行くせいだったと思い至る。
全身に悪寒を感じながら、ようやく家の前に着いた。ここが本当に自宅か不安になるが、表札に秦城と書かれていたためホッとした。鍵を開け、固く扉を閉ざす。
────怖い。
この世界のことが分からなくなる。もう、自分の家から出たくないと思ってしまった。
こんな状態でもう一度白露の世界に行ったら。
そのときは本当に、生活できないぐらい多くのことを忘れてしまうのでは?
仕事のことも忘れてしまったら、とても生きていけない。病人と疑われて通院する羽目になりそうだ。
「……っ」
頭を掻き毟りたい衝動を抑え、靴を脱ぐ。
買ってきたものを冷蔵庫に入れながら、自分が今やるべき事を反芻した。
匡のために夕飯を作る。シャワーを浴びる。洗濯機を回す。明日の仕事のスケジュールを確認する……。
何度か繰り返しイメージした。するとその流れは難なく頭の中で纏まり、映像になった。ただ一つ、白露のことだけはスケジュールの中に含まれてない。
駄目だった。
見かけた“自分”と白露の関連性は分からないが、段々と記憶を失っていくことが怖い。
『怖いよ』
白露の声が頭の中で反響する。
あぁ、確かに怖い。自分を見失うこと。人との繋がりを失うこと。
全てを忘れたら、自分という人間は死ぬ。
新たな自分が生まれて、ゼロからのスタートを迎える。
冗談じゃない。誰か望んで記憶を投げ出すか。忘れたいと願うのは余程いやな記憶だ。耐え難い、忌まわしい記憶。
例えば、自分が白露に負わせてしまった傷のような記憶。……彼はそのことも忘れているから、ある意味幸せなのかもしれない。
でも幸せなのは、自分も同じだ。彼が何も覚えてないおかげで罪の意識を感じずに済む。それでいい筈はないけど。