テラーノベル
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揺り返しは、昼を過ぎても、何度も来た。
そのたびに、芝の上の誰かが小さく悲鳴を上げ、藤棚の柱がぎしりと鳴った。
大奥様は、藤棚の下の布団の端に座らされていた。足を挫いて、立てない。膝の上に、三つの位牌を並べたまま、一度も手放さなかった。その隣に、タキさんが目を閉じて横たわっている。
私は、和館の大広間へ戻った。
ルーペを、落としたままだった。
広間は、ひどい有様だった。欄間が畳に散らばり、壁土が白く積もっている。床の間に、先代様の肖像画が、額ごと伏せていた。
額の縁を持ち上げると、その下に、鼈甲の縁が光っていた。
父のルーペだった。硝子は、割れていなかった。
私は、それを胸に押し当てた。それから、肖像画を、壁に立てかけた。
先代様は、相変わらず、左の眉に指を当てていた。
この絵の前で、あの人は書状を掴んで、廊下へ消えた。
落ちた額の脇の畳に、紫の風呂敷が一枚、くしゃくしゃになって残っていた。
*
「奥様。真柴さんの部屋を、見てきます」
廊下で、篠原さんが言った。
家令室は、帳簿棚が倒れ、帳面が床に雪崩れていた。窓際の邦文タイプライターは、白い布を掛けたまま、台ごと横倒しになっている。活字皿から零れた鉛の字が、板の間に散らばって、鈍く光っていた。
奥の六畳の襖を、篠原さんが開けた。
文机の上に、黒漆に金蒔絵の文箱が、そのまま載っていた。
小さな錠が、下りたまま。
「戻っていない」
篠原さんが、息を吐いた。
「書状を掴んで、そのまま、外へ出たんでしょうか」
私は、文箱を両手で持ち上げた。思ったより重かった。中で、紙の束が、ずれる音がした。
「大奥様の手元に、置いていただきます。あの人は、これを取りに戻ってくる」
篠原さんが、黙ってうなずいた。
藤棚の下で、文箱を差し出すと、大奥様は、黙ってそれを受け取った。
位牌を脇へ寄せ、文箱を自分の膝の下に敷いた。挫いた足が痛むはずなのに、眉ひとつ動かさなかった。
「私が、ここに座っている限り」
大奥様は、白檀の扇子を開いた。
「この家の者でない手は、これに触れさせません」
三十年、真柴さんを見ないようにしてきた人の声だった。
*
二時を過ぎた頃から、空の色が変わった。
東の空に、白く巨きな雲が、もくもくと湧き上がっていた。夏の入道雲に似ていた。けれど、雲の根もとは、黒く濁っていた。
煙だった。
下町が燃える煙が、空の上で、雲になっているのだった。
南から、生暖かい強い風が吹いていた。庭の松が、ずっと同じ方へ傾いでいる。
門の前の坂を、人が上ってきはじめた。
大八車に布団と鍋を積んだ一家。赤子を背負った女。煤で顔の黒い職人。皆、口々に何か言っていた。
「下町は、もう駄目だ」
「本所も深川も、火の海だってよ」
どこまでが本当なのか、わからなかった。言っている人も、自分の目で見たわけではないようだった。
本所。
その二文字だけが、耳に残った。
本所の、路地の奥の、二間きりの借家。父が、寝たり起きたりしている。昨日、見本帳を持ち去られて、布団をひっくり返された、あの部屋で。
春からは、床の上に座って新聞を読めるようになっていた。先月、頁を切らせてくれたとき、父は、お前の罫だ、と言った。
三年前の火事の夜、父は、火傷を負いながら見本帳を抱えて逃げた。
今度は、抱えて逃げるものさえ、あの部屋にはない。
それでも、あの人は、きっと何かを抱えようとして、逃げ遅れる。そういう人だった。
気がつくと、私は、門のほうへ歩いていた。
草履の鼻緒が、足の指に食いこむ。走りだしかけたとき、後ろから、腕を掴まれた。
「どこへ行く」
冬馬様だった。三つ揃いの上着を煤だらけにしたまま、私の腕を、離さなかった。
「本所へ。父が」
「行かせない」
「離してください。父は、一人では起きられないんです。火が来たら」
「わかっている」
冬馬様の声が、低くなった。
「だから、私が行く」
私は、冬馬様の顔を見上げた。
こけた頬。乾いた唇。昨夜、一椀の粥を食べ終えるのにも、長い時間がかかった人だった。
「無理です。旦那様は、まだ」
「君は、ここで、この家の者を守れ」
冬馬様は、私の言葉を遮った。
「母上は歩けない。タキは目を覚まさない。百合絵は、強がっているだけだ。それに」
冬馬様は、和館のほうを見た。
「宗介が、まだ、どこかにいる」
私の手の中の、ルーペが、急に重くなった。
「あれが狙っているのは、君の帯の中だ。私の見ていないところで、君を本所の火の中へなど、やれるものか」
冬馬様は、上着の内隠しに手を入れた。
鹿革の、小さな袋を出した。黄楊の実印が入っている袋だった。
それを、私の手のひらに押しつけた。
「家のことは、君が決めろ。誰が何を言っても、それを見せればいい」
「こんな大事なものを」
「大事だから、君に預ける」
冬馬様は、私の指を、袋ごと握らせた。
*
「少しだけ、待ってください」
私は、使用人棟へ走った。
大台所は、焦げた柱と、水びたしの土間ばかりになっていた。それでも、竈の上の大釜は、蓋をしたまま残っていた。昼餉のために炊いていた飯だった。
蓋を取ると、上のほうは水を吸って柔らかく、底のほうは、黒く焦げついていた。
私は、手を井戸の水で洗い、塩壺の塩を手のひらにまぶした。
熱い飯を、二つ握った。焦げたところも、そのまま握りこんだ。いびつな、塩だけの握り飯だった。
婚礼の夜、半紙に包まれて小卓の上に置かれていたものと、同じくらい、不格好だった。
半紙はなかった。お鈴が、洗いざらしの手拭いを差し出してくれた。
門の前へ戻ると、冬馬様は、黙ってそれを受け取った。
手拭いの包みを、しばらく手のひらの上で量るように持っていた。
「……焦げている」
「釜の底です。焦げたのしか、残っていませんでした」
冬馬様は、包みを、上着の内隠しにしまった。実印の袋が入っていた場所に。
それ以上、何も言わなかった。
篠原さんが、黒い自転車を押してきた。
「御前。僕が行きます。本所なら、道もわかります」
「おまえは残れ」
冬馬様は、首を振った。
「この家で、梁を持ち上げられる男は、おまえしかいない。……妹と、妻を頼む」
篠原さんは、唇を噛んだ。それから、自転車のハンドルを、冬馬様に渡した。
「ブレーキが、甘いです。坂では、気をつけてください」
「わかった」
百合絵様が、大奥様の脇から駆けてきた。何か言おうとして、言えずに、冬馬様の袖を掴んだ。冬馬様は、その手を、一度だけ握った。
門の前で、冬馬様は、自転車にまたがった。
それから、私を振り返った。
「必ず戻る」
「はい」
「それまで、何も食べるな」
いつもの、短い声だった。
婚礼の夜から、何度も聞いてきた言葉だった。この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は。
冬馬様は、そこで、口をつぐんだ。
長い沈黙のあとで、首を振った。
「……いや」
煤で汚れた手袋の指が、私の頬に、ほんの一瞬触れた。
「食べろ。何でもいいから、食べて、生きていろ」
私は、返事ができなかった。
うなずくことしか、できなかった。
冬馬様は、ペダルを踏んだ。
鳥居坂の急な下りを、黒い自転車が、軋みながら下っていく。坂を上ってくる人の波の間を縫って、どんどん小さくなる。
坂の下で、一度だけ、こちらを振り返ったように見えた。
私は、帯の上から、縫いこんだ頁を押さえた。
もう片方の手で、鹿革の袋を握りしめた。
坂の下の通りの向こうは、東の空からなだれ落ちてくる煙で、灰色に霞んでいた。
冬馬様の黒い上着の背中が、その煙の中に、溶けるように消えた。
コメント
1件
**はる。:** ちょっと待って、もう胸がいっぱい…! 冬馬様があの「食べるな」を撤回して「食べて生きていろ」って言い直したところ、グッときすぎてやばかった。焦げた握り飯を渡すシーンも、婚礼の夜の不格好なそれと重なってずしりと来る。火事で帝都が燃える中、誰かを守るために動く決意と、本所の父を思う気持ち。ルーペと実印という小さな「重み」が、この物語のテーマを全部背負ってる感じがして…。あーもう次が待てません🔥
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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