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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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日が傾くにつれて、坂を上ってくる人は増える一方だった。
門の格子の向こうに、顔が並んでいた。煤で黒い顔。泣き疲れた子どもの顔。大八車の上で、布団にくるまった年寄りの顔。
皆、黙って、こちらの庭を見ていた。
芝生と、池と、松の木と、崩れていない土の地面を。
「奥様。どういたしましょう」
門番の老人が、困り果てた顔で私を振り返った。
「御前のお許しもなしに、門を開けるわけには」
私は、帯の間から、鹿革の小さな袋を出した。
「旦那様から、家のことは私が決めるようにと、預かっております」
門番は、袋と私の顔を見比べた。それから、藤棚の下の大奥様のほうへ、目を泳がせた。
大奥様は、布団の端に座ったまま、扇子を閉じた。
「聞こえたでしょう」
細いが、よく通る声だった。
「嫁が、決めたのです。開けなさい」
門が、軋みながら開いた。
人々が、おずおずと庭へ入ってきた。下駄の音が、芝の上で柔らかく消える。誰かが、ありがたい、と呟いた。誰かが、地面に座りこむなり、声を上げて泣きだした。
一刻もしないうちに、庭は人で埋まった。
*
「お米は、蔵にあります」
百合絵様が言った。
「でも、蔵の鍵は、真柴と、お母様しか」
大奥様が、帯の間から、黒ずんだ鉄の鍵を抜いた。
「持っていきなさい」
土蔵の重い扉を開けると、ひやりとした空気と、黴と古い紙の匂いが流れ出た。
去年の秋、虫干しで、何日もここに通った。蔵の書物は五百冊。棚の並びも、米俵の積み場所も、まだ体が覚えていた。
壁の土が、ところどころ剥がれ落ちていた。それでも、蔵は建っていた。
篠原さんと下男たちが、米俵を担ぎ出した。
大台所の竈は、片方が焼け残っていた。足りない分は、庭に石を組んで、大鍋を掛けた。
井戸の水は、必ず一度、沸かしてから使うように頼んだ。生水を飲んで腹を下せば、こういうときは命に関わると、父から聞いたことがあった。
炊き上がった飯を、皆で握った。
百合絵様は、袴の上に襷を掛けて、熱い熱いと言いながら、手のひらを真っ赤にしていた。お鈴は、さすがに手際がいい。ハナとキヨは、黙々と塩を振っている。篠原さんは、握り飯を盆に並べては、庭の人々のあいだを配って歩いた。
ふと気がつくと、藤棚の下で、大奥様が、襷を掛けていた。
鈍色の袖を、白い紐で、きりりと絞っている。
「お母様、お足が」
百合絵様が慌てて止めた。
「手は、挫いていません」
大奥様は、膝の上に盆を置かせ、私の差し出した飯を、両手で受け取った。
白い指が、熱い飯を、ぎこちなく包む。
出来上がったものは、角がなく、ところどころ崩れて、指の跡がそのまま残っていた。
大奥様は、それをじっと見下ろした。
「……握ったことなど、ありませんから」
百合絵様が、くすりと笑った。大奥様は、娘を睨んだ。それから、二つ目を握りはじめた。
三つ目も、四つ目も、不格好だった。
けれど、その不格好な握り飯を受け取った子どもが、大奥様に、ぺこりと頭を下げた。大奥様は、何も言わずに、うなずき返していた。
*
日が落ちても、庭は暗くならなかった。
東の空が、赤かった。
夕焼けではなかった。地平の向こうで、何かが燃え続けている色だった。その赤が、低い雲の腹に映って、庭の人々の顔を、ぼんやりと照らしていた。
本の字くらいなら、読めそうな明るさだった。
あの赤の下に、本所がある。
冬馬様は、あの下へ、自転車で下りていった。焦げた握り飯を二つ、内隠しに入れて。
私は、膝の上の手を、固く組んだ。
食べろ。何でもいいから、食べて、生きていろ。
大奥様の不格好な握り飯を、一つ、口に入れた。塩が、少しも効いていなかった。
全部、食べた。
藤棚の下から、大奥様がこちらを見ていた。
「……味が、しないでしょう」
「はい」
私は、正直に答えた。大奥様の眉が、わずかに寄った。
「でも、大奥様が握ってくださったものですから」
大奥様は、扇子を開きかけて、やめた。手もとに残っていた飯粒を、黙って指でつまみ、口に入れた。
「次は、塩を振ります」
それだけ言って、横を向いた。
夜が更けると、庭のあちこちで、提灯が一つ、また一つと消えていった。
人々は、芝の上で、寄り添って横になっていた。揺り返しが来るたびに、誰かがびくりと起き上がり、また横になる。
私は、藤棚の下のタキさんの様子を見に行った。
藤棚の柱に、篠原さんが敷布を渡して、雨よけの天幕のようにしてくれていた。タキさんは、その下で、目を閉じたまま、浅い息をしていた。
大奥様は、文箱を膝の下に敷いたまま、座ったまま眠っていた。百合絵様が、その肩に、自分の羽織を掛けていた。
藤棚の奥は、提灯の明かりが届かない。
私は、タキさんの枕元を離れ、水を汲みに、井戸のほうへ回りかけた。
その時だった。
後ろから、腕を掴まれた。
声を上げようとした口を、乾いた手のひらが塞いだ。
煙の匂いがした。その奥に、もう一つ、嗅ぎ慣れた匂いがあった。
青黒いインクの、匂いだった。
「お静かに、奥様」
耳もとで、柔らかな声がした。
穏やかで、丁寧で、少しも乱れていない声だった。
「皆様、お疲れでございます。起こしては、お気の毒でしょう」
真柴さんだった。
いつから、どこから。答えはすぐにわかった。蔵の鍵は、真柴さんも持っている。蔵の裏から、塀の切り戸へ抜ける細い道がある。この家の何もかもを、この人は、知っているのだった。
「見本帳を、拝見いたしました」
真柴さんの声は、帳簿の読み合わせをするときと、同じ調子だった。
「一冊、丁寧に、全部。大正七年五月の頁だけが、ございませんでした。……あの几帳面な御父上が、店を畳むわけでもないのに、頁を切るはずがない」
口を塞いでいた手が、ゆっくりと下りてきた。
私の帯の上に、白い指が置かれた。
「その帯の中ですね。見本帳の頁は」
帯の芯の、縫いこんだあたりを、指が正確に押さえていた。
「文箱は、大奥様のお膝の下でございますな。あちらは、後で結構です」
私は、膝の力を抜いた。
倒れかかるように身を沈めると、腕を掴む手が、一瞬緩んだ。
その隙に、体をひねって、振りほどいた。
走った。
藤棚の裏から、土蔵の脇へ。蔵の壁と、隣の物置の壁のあいだに、人ひとりが横向きにやっと通れるほどの隙間がある。虫干しの日、運び出した書物を日向に並べるために、何度もここを通った。足もとに、雨樋の受け石が一つ、突き出していることも。
私は、受け石を跨いで、隙間へ体を押しこんだ。
後ろで、何かにつまずく音がした。低い、押し殺した声。
私は、振り返らずに、隙間を抜けた。
「誰か。誰か来て」
私の声より先に、がんがんがん、と、けたたましい金物の音が、夜の庭に響き渡った。
お鈴だった。炊き出しの大鍋の蓋を、しゃもじで、力いっぱい叩いていた。
「泥棒です。泥棒です。奥様が」
芝の上の人々が、跳ね起きた。提灯に、次々と火が入る。篠原さんが、天幕の下から飛び出してきた。下男たちが、棒を掴んで、蔵のほうへ走っていく。
蔵の裏の闇の中で、塀の切り戸が、きいと鳴った。
足音が、遠ざかった。
追いついた篠原さんが、私の肩を掴んだ。
「奥様、お怪我は」
私は、首を振った。帯の上に、手を当てる。縫い目は、ほどけていなかった。
大奥様が、目を覚まして、膝の下の文箱を、両手で押さえていた。
そのとき、塀の外の暗がりから、声が聞こえた。
大きな声ではなかった。それなのに、提灯の明かりを越えて、まっすぐに私の耳に届いた。
「侯爵は、戻りませんよ、奥様」
穏やかな、いつもの声だった。
「本所は、火の海でございます」
コメント
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ヒエエエエエエ真柴さん!!?!?!🌙💦 いやもう今回の話、ずっと涙腺緩みっぱなしだったんだけど!大奥様が不格好なおむすび握るシーン、百合絵様がくすりって笑ったとこ、私も一緒に笑いながら泣いたよ😭💕 で、そんな温かい空気一瞬でぶち壊す真柴さんの登場の仕方ヤバすぎるでしょ…「侯爵は戻りませんよ」の台詞、穏やかなのにゾワゾワした。積み重ねてきた信頼が一気に瓦解する感じ、もう心臓掴まれたまま離してくれないよ💔 毎回「この話が一番好き!」ってなるんだけど、今回も最高だったよ…次の話が待てないんだけど!?!?🔥🔥🔥