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その頃、表側では、守近は身支度を整え終わり、御簾の向こう側で、身支度を行っている、妻、徳子《なりこ》の、仕上がりを待っていた。
ついで、なのか、時間潰しなのか、守近は、徳子の本日の暦まで、読んでいる。
「守近様?私《わたくし》は、何に、気を付ければよろしいのでしょう?」
着付ける、衣擦れの音と共に、徳子の鈴を転がしたような可憐な声が流れて来た。
「うーんと、なになに、あれ、本日は、猫にお気をつけくだされ」
「……猫……ですか?」
くくくっ、小さな笑いに、徳子は、もうっ、と、小さく拗ねたような声をだし、「ご冗談ですか?」と、守近へ問うた。
ええ、と、守近が返事をすると同時に、父上!と、なにやら切迫した、守満《もりみつ》の、声がして、その姿を現した。
「おいおい、守満や、ここは、父と母の寝所《しんじょ》ぞ?子供のお前とて、夫婦の房《へや》へ、立ち入って来るとは、何事だね?」
あっ、と、声をあげ、守満は、膝をつくが、
「おや?また、これは!丁度良い!」
守近は、守満の背後へ目をやった。
「常春《つねはる》か、こちらへ、こちらへ、本日の、徳子姫の、吉凶を読んでくれないか?」
「……暦、ですか?というか、手にお持ちの物をお読みなさればよろいのでは?」
常春は、いきなり声をかけられ、訳がわからぬと、渋い顔をした。そもそも、守近に、これを頼むと、言われた時は、妙な案件ばかりなのだ。
すでに、出来上がっている暦を、今さら、どうしろと言うのだろう。何か文句があるのなら、それを作成した、陰陽師に、言えば良い。
──貴族の生活というものは、吉凶が、すべて。我が身に、厄が降りかからない様に、様々な厄除けを行うのだが、その、指針たるものが、自分専用の暦で、一人一人に、毎日の吉凶が記された暦が、陰陽寮から発行される。それをもとに、この方位はいかん、この日は、忌み日かと、様々な対策をとるのだ。そして、暦の最後には、誰が作成したのか、署名がある。
何かあったときは、その、陰陽師のせい。という実に、厄介なような、明快なような仕組みが組まれていた。
「だが、徳子姫は、大事なお体。念には念を。常春の読みはどのようなものかね?」
ですから、暦に、それが、書かれてあるのでしょうがっ!と、言えれば、楽なのだが、如何せん、惚けて、おられるのは、大納言様なのだ。
さらに、渋い顔をして、常春は、房へ、立ち入った。
すると、御簾が上がり、ふっくらとした腹部に手を当てて、身支度を終えた徳子が現れた。
常春は、慌てて、平伏する。
几帳も、何もない。徳子と自身を隔てるものがない為に、常春は、頭を下げた。
「あらあら、まあ、そのように、かしこまらなくても。ここは、宮では、ございませんよ、常春や、自分の屋敷と思いなさいと、いつも言っているのに……」
い、いえ、それは、それ、と、常春は、さらに、慌てた。
「もう、守近様が、おかしな事を言うからですよ?皆、小さくなってしまって。それよりも、朝から、どうしたのです?」
守近の出仕の見送りならば、屋敷の入り口である、中門で、行うのであるが……。
「何か、急ぎの話なのですね」
私は、外しましょうと、徳子は、寝所の隣にある、自身の房へ移動しようとする。
「あ、あ!母上!私達が、移りますっ!母上は、そのままで!」
「ですがねぇ、もう、朝を迎えて、おりますし、どのみち、ここから出なくては……」
身重の徳子の体を心配する、守満へ、徳子は、少し、不満そうに言った。
「あーー、そうですが、そのように大きくなった、腹を支えて、動かれるのは……」
ええ、少し、大変。と、徳子は、ふう、と、息をついた。
とは別に、どこからか、ふうー、と、大きなため息が聞こえて来た。
「あら?守恵子《もりえこ》かしら?」
徳子が反応すると同時に、
「あー!だからっ!順番ですっーーー!」
確かに。守恵子の叫び声が響いて来た。
そして、その後に、ニャーニャーと、猫の鳴き声が続く。
「ああ!!常春!!猫!猫だよ!!」
「……えっ、もしかして、あの、大群が、まだ?!」
「ああ、相談は、一度お開きということにした。ただ、家へ戻れない猫が、殆んどだったから、屋敷の、縁の下で一晩過ごすようにと、言ったのだ」
まったく、なんでまた。次は、猫かよ!と、常春は、苛立つが、そうもいかないのが、やはり、仕える立場という身。
ぐっと、堪えながら、
「紗奈を呼んで参りましょう。いや、猫の言葉がわかる、タマだな」
と、愚痴りつつ、しかしですよ!と、守満へ、意味深に言い返した。
「うん、わかっているよ、猫、どころではない、けどね、守恵子の叫びもなんとか、しなければ、みっともないだろう?」
隣近所の御屋敷に聞こえたら、と、守満は、気を回している。
いや、これだけ、ばかでかい敷地内で、少々騒いでも、そもそも、その、隣近所、という、御屋敷は、目視できる位置にはないではないですか!
と、これまた、守満を諭せれば、良いのだが、如何せん、守近夫婦の御前。
ああ、なんなんだ、と、うっかり、口に出してしまった、常春に、守近が、笑いながら言った。
「ほら、やはり、今日は、猫日、でしょ?徳子姫?」
ふふふ、まあまあ、本当に、と、こちらの夫婦は、すっかり、喜んでいる。