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第9話:リスカーの墓標
朝9時、灰色の空の下。
小さなオフィスビルの一室に、無音の通知が届いた。
【登録リスカー:シノダ・ユウ失踪/追認定義:死亡】
【最終記録ログ:同期対象あり】
【後任:S.P-019 イタカ 継承申請可】
オフィスの一角で、その通知を見つめていたのは、アオバという女性だった。
30代前半、身長は小柄、鋭い目元に丸い眼鏡をかけている。
服装は濃いベージュのパーカーに、濃紺のロングスカート。
姿勢はやや猫背だが、腕を組む動きは理知的で迷いがない。
彼女は「記録管理官」として、リスカーの死亡に対応する立場だった。
そしてその向かいに、イタカが立っていた。
この日の彼は、黒のジャケットにインナーはダークグリーンのハイネック。
髪は結い直され、首元に包帯が覗いている。
目の下に薄いくまがあるが、表情はいつも通り整っていた。
「……シノダさん。何度か、現場ですれ違ったことはありました」
アオバは頷く。
「記録の一部に“痛みの深度”タグが残ってる。
そのログだけはまだ、“閉じられてない”の。あなたにだけ、閲覧権がある」
イタカは、提示された契約ファイルを手に取った。
今回の表紙は、無地の灰色。
装飾もロゴも一切ない。
ただ中央に小さく、「記録継承処理依頼書」の印字があるだけだった。
彼は、それを指で丁寧にめくりながら、静かに言った。
「……このログは、他者体験ではなく、“継承”扱いになるんですね」
アオバは頷く。
「あなたが、彼の“最期の痛み”を引き取るという形。
記録は改ざん禁止。拒否も不可。
でも、受け取ったあなたが“どう語るか”は、自由」
イタカは指で契約欄をなぞりながら、穏やかに笑った。
「……いいですね。
誰かが“最後に残したもの”って、たいてい形にならない。
けど、それを“形にする痛み”って……なんか、すごく人間的だ」
【継承記録処理契約書:S.P-1457】
継承対象者:イタカ(S.P-019)
記録元:シノダ・ユウ(S.P-041)死亡認定済
内容:未完了ログの体験継承と処理
ログ構成:
① 身体的崩壊ログ(時間経過)
② 精神境界の不安定化
③ 感情残留(自責/断絶/希望断片)
目的:記録者の意志保存/記録封印
注記:再委託・削除不可
イタカは契約にサインし、指を一度鳴らした。
「じゃあ、受け取ります。
彼が最後に“ひとりで受け取った痛み”、ちゃんと再生して、抱えてみます」
アオバは、深く一礼した。
「……あなた以外に、これを受けられる人間はいないと思う」
記録は、簡素なデータパックだった。
言葉も映像もない。
ただ、“感覚”だけが封じられていた。
体験ルームで再生した瞬間、
イタカは呼吸が詰まり、胸を抑えた。
「……あ、これは……喉じゃない。心臓の下、もっと……深いとこが……裂けてくるな」
“誰にも届かなかった記録”は、
イタカの中で、現実の痛みとして蘇っていた。
誰にも話せなかった叫び。
残されたまま終わった言葉。
そして――
“それでも最後まで仕事を遂げようとした意志”。
イタカは、涙でも汗でもない“熱”を吐くように、
うつむいたまま、ひとことだけ言った。
「……うん。
良いログだった。
すげえ痛いのに、ちゃんと“終わらせよう”としてる。
……好きだな、こういうの」
数日後。
彼は、アオバに封筒を渡した。中には“1行だけの感情ログ”が印刷されていた。
> 「まだ誰かに必要とされている気がして、立ち上がった。」
アオバは、その紙を読み、しばらく黙った。
「……これが、彼の最後?」
イタカはうなずいた。
「はい。
彼は死んだあとも、“誰かが受け取ってくれる”って信じてた。
だから、私は“受け取って、歩く”って決めました」
その夜、イタカは人気のない歩道橋に立っていた。
風の中で、空を見上げ、目を閉じる。
「死んだ痛みって、実は残るんだな。
他人の中で、生き続けるって、少しだけ……あったかい」
携帯が震える。次の依頼が届く。
彼は振り返らず、ただ歩き出した。
痛みとともに、次の場所へ。