「はあー、何とか逃げ出す事ができたぁー」
女の争いから抜け出せた上野は、自分を呼んだ声の主を辿るかの様に、北の対屋《ついや》へ向かって歩んでいた。
聞こえたのは、覚えのない女房の声だった。
中堅どころと、呼ばれるようになっているにも関わらず、屋敷の事は、網羅しているにも関わらず、聞き覚えのない声だったのだ。
「いったい、どなただったのかしら?」
その呟きに答えるように、再び、上野を呼ぶ声がする。
「上野様?如何いたしました?」
「どうもこうも……、ええええーー!」
上野の前にいるのは、上野、だった。
「まあ、その様に、声を挙げられて、はしたないこと」
上野は、上野に、声をかけられ、呆れられている。
(こ、これは……。)
「晴康《はるやす》殿!いい加減になされませ!」
しいーと、人差し指を口元に添える上野の姿は、霞のように消え去り、変わって、若者《はるやす》が現れた。
「いやはや、女房というものも、大変なお務めですなぁ」
「ど、ど、どうして!」
「あれ?常春《つねはる》から、聞いておられませんか?お師匠様のお出迎えですよ」
さらりと晴康は言うが、どこか表情が硬い。
「……琵琶法師が……何か?」
怪訝に問う上野に、ふふっと、春康は、笑った。
「正体を暴くため」
「晴康殿……それは……」
「あなた様なら、お気付きでしょう?あの者の、怪しさに」
上野は、向けられている、切れ長の目に吸い込まれそうになる。
そして、かすかな吐息と共に、頷いていた。
意図しない自らの動きに、異常を感じた上野は、かっと目を見開くと、前にいる男を攻め立てていた。
「晴康殿!その、胡散臭い、術とやらをお使いなさるなっ!」
「……あれ?何故ですかねぇ。上野様には、いつも、術が効きませんね。図太いのか、はたまた、鈍感なのか」
「な、なんですって!」
「まあまあ」
苛立つ上野をなだめながら、晴康は、手を貸して欲しいといい放った。
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