コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
*****
「丸一日、何も食ってなかったんだよね」と言って、彼はハンバーグセットとミックスフライ、ポテトフライとシーザーサラダを平らげた。
それから、私が残したきのことベーコンの和風サラダも。
午後九時を過ぎていたから、入れるお店は限られていた。
お酒を飲みたいわけじゃなかったし、彼はとにかく量を食べたいと言ったから、ファミレスに落ち着いた。
あまり、話はしなかった。
黙々と食べる彼を、私は黙って見ていた。
箸の持ち方が綺麗で、口を開けて噛むようなことはしない。
話をする時は箸を止め、相手の顔を見る。
口調に若さを感じるけれど、不快感はない。
気持ちいい食べっぷりの彼を眺めながら、良い所を上げていく。
どうして、彼を捨てられたんだろう……。
「長期出張から帰ったらさ――」と、食後のコーヒーを飲みながら彼が言った。
「――マンションには知らない人が住んでて、俺の荷物はレンタル物置に入れられてたんだよね」
「それは……犯罪ね」
「だよな? けど、やったのが嫁だと、さすがに被害届も出せないじゃん?」
彼はブラックコーヒーを飲んだ。
喉仏が上下する。
「夫婦喧嘩にしては、激しいわね」
「ははっ! 激し過ぎだよな。けど、俺は喧嘩した覚えなんかなくてさ。大きな仕事を抱えてて、三か月の間一度も帰れなかったのは悪かったかもしれないけど――」
「――奥さんはなんて?」
私もブラックコーヒーを飲む。
あの男は砂糖もミルクも、入れた。
「さようなら、だって」
「それだけ?」
「それだけ。意味わかんねーよな……」
彼はおでこの、生え際を人差し指でポリポリと掻いた。
「マンションがなくなって、今はどこで暮らしてるの?」
「出張……から帰ったのが昨日でさ。とりあえず、ビジネスホテルに泊まった」
「今日も?」
彼がカップから手を離し、ドサッとソファに背を預けた。
「いや。チェックアウトしてきたから」
「そう……」
昨夜から今日にかけて、踏んだり蹴ったりの、まさに悪夢のような一日を過ごしたのだろう。
公園で、私が声をかけなければ、彼はどうしていたのだろうと思う。
「無一文って言ってたけど」
「うん。通帳とか、全部嫁が持っていなくなったから」
「出張中はどうしてたの?」
「それは会社経費だから、自分用の口座に振り込んでもらってた」
「そう……」
きっと、本当の意味で無一文ではないのだろう。
給与の振込先はすぐに変更できるだろうし、当面は何かと不自由だろうけれど、いきなりホームレス生活ではないはずだ。
「俺名義のマンションを勝手に売るのって、違法だよな」
「そう……ね」
「離婚届も。勝手にサインして出してたって」
「違法って言うか、犯罪ね」
「だよな?!」
「そういうの、ちゃんとした手続きをすれば無効にできるんじゃない?」
私の言葉に、彼は数回、素早く瞬きをした。
「無効ってことは、離婚を取り消せる?」
「ええ」
「取り消し……」と、呟いて顎に手を添える。
どうしてこんなことになったのか。
私は、目の前の被害者への言葉に迷い、諦めた。
私の口から知らされるのが、違う。
私が謝るのも、違う。
「そろそろ出ましょうか」
気の利いた言葉が思い浮かばず、私は伝票を持って立ち上がった。
「えっ? あ、ちょ――」
慌てて、彼が追いかけてくる。
店を出ると、駅前とはいえ車通りも少なく、明かりらしい明かりは背後の店のものだけ。
私は空を見上げ、目に見えるより大きく存在感を示す満月を瞳に写した。
「名前は?」
「え?」
振り返ると、彼は月ではなくて私を見ていた。
「あんたの名前」
「……どうして?」
「せっかくお近づきになれたんだから、さ? あ、俺は――」と言いながら、彼はジャケットの内ポケットに手を入れた。
多分、名刺を出そうとしている。
「――いいじゃない、名前なんて」
私は駅に向かって歩き出す。彼がその後を追ってくる。
待て、とか、帰るのか、とか聞いているけれど、私は振り返らなかったし、止まらなかった。
彼も、声は掛けるけれど、強引に引き留めることもしない。
名乗り合うような、関係じゃない。
名乗り合えるような、関係じゃない。
本当なら、出会うはずもない――。
駅前のタクシー乗り場には、かろうじて二台が停車していた。
先頭のタクシーに近づくと、後部座席のドアが開いた。そこで彼に腕を掴まれ、私は振り返った。
「帰んの?」
不機嫌そうな表情が、可愛いと思った。
「乗って」と、私は言った。
「お腹いっぱいになったでしょう? 後は何も考えずにぐっすり眠るだけよ。何をすべきか、何がしたいのかを考えるのは、明日目が覚めてからにして」
「なんでそこまで――」
「――お腹が空いている時、睡眠不足の時は判断を誤りやすいわ。泣いて、食べて、眠れば――」
「――そうじゃなくて!」
一目惚れをしたとでも言えば、納得してくれるのだろうか。
乾いた心に潤いが欲しくて声をかけたと言えば。
それとも、欲求不満を解消するために声をかけたが、気が変わったと。
だが、どれも違う。
本当の理由なんて、言えるはずがない――。
「老婆心、とでも思ってちょうだい。若くて可愛い子が公園のベンチで項垂れてたから、美味しいものをご馳走して笑わせてあげたかっただけ」
「あんた、そんなババアじゃねーじゃん」
嬉しかった。
先日、彼と同じ年の女性にババアと言われたばかりだったから、お世辞だとわかっていても嬉しかった。
私は掴まれていない方の手を伸ばし、彼の頬に触れた。
張りの良いすべすべの肌。
見ているだけではわからないけれど、微かに髭が掌を突く。
立派な男……ね。
そんなことを思った自分に笑えて、思わず口元が緩む。
「ババアよ。あなたみたいな息子が欲しいと思うくらいには、ね」
「あんたの息子なんて、冗談じゃねぇ」
見下されたと思ったのか、彼は頬に添えられた私の手をギュッと握った。
「あんたは、俺の母親じゃないし、俺は母親に欲情したりしない」
「え――」
彼は片手で私の両手首を掴むと、私の頭を抱えるようにして抱き寄せ、タクシーに押し込んだ。
「ちょ――」
「――|Empire HOTEL《エンパイアホテル》まで」
彼が運転手に告げると、ドアが閉まり、車が動き出した。
頭を彼の胸に押し付けられたままで、逃れられない。
「確認ですけど、無理矢理、とかじゃないですよね?」
年配の男性の声、タクシーの運転手の言葉に、彼が私の頭と手を離した。
顔を上げると、アクリル板の向こうのバックミラー越しに、運転手と目が合った。
「そういうんじゃないです」
そう言って、私は乱れた髪を手櫛で直す。
日付が変わる少し前とあって道も空いていたし、何より大した距離じゃない。五分ほどでEmpire HOTELに到着した。
彼は千円札をアクリル板の隙間に置かれたトレイに載せ、お釣りの三十円は入らない旨を伝えた。
彼の後に続いて、タクシーを降りる。
自動ドア二枚の奥には、毛足の長い深紅のカーペットが、シャンデリアの明かりで輝いて見える。
「あんたの名前は?」
タクシーのドアが閉まるなり、彼が聞いた。
「聞いてどうするの」
私はホテルのドアマンの襟元を見ながら答えた。
「宿泊者名簿に名前書かなきゃなんないじゃん」
彼は私と一緒にこのホテルに泊まるつもりらしい。
こんなおばさんとなんて……。
あのドアマンには、私たちはどんな関係に見えるのだろう。
こんな時間に、母子ほどは年の離れていない男女が訪れるのだ。普通に恋人同士か、愛人か。間違っても、友達や家族には見られないだろう。
そんなことを考えている間も、彼からの視線が痛い。
名前を聞くまで、ドアマンに仕事をさせないつもりらしい。
「はなこ」と、私は呟いた。
世のはなこさんには失礼だが、偽名といえばそれが思い浮かんだ。