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「イメージじゃないな」
「なに、それ」
「麗しいとか、美しいとか、あとは凛とかそんな感じだよね、あんた」
「残念。どっちの漢字も入ってないわ」
「花と子も入ってないんでしょ?」
本名を告げる気はない。
そんなことをする、意味がない。
どうせ、今夜限りで、二度と会うことはないのだから。
ホテルに足を踏み入れた後、どうなるかはわからないけれど、どうなったとしても、間違いなく六時間後には、私は家路についている。独りで。
「みつき」と、彼が呟いた。
「え?」と、思わず彼を見上げる。
彼はエントランスから三十度ほど身体を捻って、空を見上げていた。
「満月と書いて、|満月《みつき》」
彼は月を、私は彼を見ていた。
ウィーンと正面から機械音がして、二人同時に向き直る。
「お泊りのお客様でしょうか?」
しびれを切らしたドアマンが、言った。
「あ、はい」と言って、彼は私の手を握り、ドアマンが開けてくれた自動ドアを抜けた。
足早にズンズンとフロントに向かう。
ロビーのソファに私を座らせると、待っているように言って一人でフロントの前に立った。
前払い……よね。
気が付いて様子を伺っていると、彼はクレジットカードと、それと同じくらいの紙を差し出していた。それから、恐らく宿泊者名簿であろう用紙に記入する。
満月、と書いたのだろうか。
欲情……って言ったわよね。
タクシーに押し込まれる前の、彼の言葉を思い出す。
そもそも、「私に買われない?」なんて声をかけた時点で、そういう目的だと思われても仕方ないか。
彼は、私を抱くのだろうか。
会って三時間程度の、ずいぶん年上の女を。
ファミレスの食事のお礼には、貰い過ぎね。
誰が見たって、若い男に抱いて貰える、私の方が役得だ。
だが、もしかしたら、彼が何も考えずに眠るには、必要なのかもしれない。セックスが。
ならば、私は応じるべきだ。
慈善活動、と言い切ったのだから。
「お待たせ」
彼はルームキーのカードを持って戻って来た。
私は立ち上がり、彼の後に続いた。
乗客を待っていたエレベーターは、彼がボタンを押すなり扉を開いた。
彼は、二十階のボタンを押す。
壁の案内板によると、二十階はデラックスツインとデラックスダブルのフロア。一泊五万くらいだろうか。
「満月って書いたの? 私の名前」
「うん」
それ以上は聞かなかった。
エレベーターを降りて、三つ目のドアの前で彼はカードをかざした。
ピーッという電子音に同調するように、私の心臓が大きく跳ねた。
いつ振りだろう。
今更だが、セックスなんて何年もご無沙汰だった。
片手をドアノブに、片手を私の腰に添え、彼がスマートな動きで部屋に入る。
センサーで部屋に灯りがつく。
正面の窓には、満月が浮かんでいた。
部屋の中央には、ダブルベッドより大きいベッドがひとつ。
「俺、淡泊な方だと思ってたんだけど」
彼がジャケットを脱ぎながら言った。
「え?」
「自分のこと。あんま、がっつくタイプじゃないって言うか」
「そう……なの?」
彼が緩んだネクタイの結び目に人差し指を入れ、グイッと引き解く。
初めて見たわけでもないのに、不覚にもドキッとしてしまう。
同時に、自分にもまだ、男性に対してそんな感情があったのかと驚いた。
私は彼から目を背け、ソファに放たれたジャケットを持つと、クローゼットのハンガーに掛けた。自分のコートも。それから、十六時間履き続けたパンプスを脱いだ。
ふうっとひと息つく。
着圧ストッキングを穿いているとはいえ、ふくらはぎのむくみは解消されない。
「ね」
背後から腕が伸びてきて、皺になったネクタイがジャケットのハンガーに引っ掛けられる。
背中に彼の熱を感じ、振り返ることが出来ない。
「一緒に入る?」
耳元に寄せられた彼の唇から吐き出された息が鼓膜をくすぐる。
何を意図してかはわからないけれど、わざとなのはわかる。
「何の話?」と、私は動揺を悟られまいと、クローゼットの中で並ぶ私と彼のジャケットを見つめて言った。
「風呂」
風呂!?
いきなりお風呂に誘われるとは思っていなかったから、驚いた。が、そうは見えないように装うことが無意識に出来てしまうのは、悲しいかな大人の性。
「結構よ」
「なんで?」
「脱いだストッキングや下着をまた穿くの、嫌なの」
ソノ気も失せる事実。
「いつもはどうしてんの?」
「いつも?」
「急に男に誘われたら」
「――ないわね」
「断んの?」
「誘われることがないってこと」
「嘘だぁ」
「……嘘じゃないけど、いい意味で受け取っとくわ」
「じゃ、俺シャワー浴びてくるわ」と、彼は私と距離を取った。
「ごゆっくり」
この隙に帰ろう。
ここまで来てしまったのが間違いだった。
私と彼は、近づいてはいけない――。
「ルームサービス頼んだから、受け取っといて」
「え?」
振り返ると、彼がワイシャツのボタンを外していた。
思わず視線を逸らす。
「それだけじゃ、足りないかな」
その声と共に、首筋を触れられた。
彼の指は、冷たかった。
いくらファミレスで温かい料理を食べたと言っても、その前は木枯らしの吹く秋の夜に何時間も公園にいたのだ。冷え切って当然だ。
そんなことを考えていると、首筋に彼の指以外の冷たさを感じた。
「これ、預かっとく」
「え?」
彼は人差し指にぶら下げたチェーンを見せる。私のネックレスだ。
プラチナのチェーン、トップにはMの文字が彫られたスクエアのプレート。
「イニシャル、Mなの?」
「返して」
「シャワーから出たら、ね」
「なんで――」
「――あんた、消えそうだから」
そう言うと、彼は私のネックレスを握り締め、バスルームへと消えた。
すぐに、水音が聞こえ始める。
ネックレス……。