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年が明けて、私はMMテレビの編成広報局で働き始めた。
泉川が言っていたように、仕事の中身は事務的な要素が多く、取っ掛かりさえ覚えれば、特に難しくはないと思えることがほとんどだった。
ひと月もたつと仕事が増やされた。編成広報局長である中沢の秘書的な仕事や、視聴者対応の電話受付はもともと割り当てられていたものだったが、そこにいかにもマスコミらしいと思えるような業務が加わった。
例えば。
メディア情報誌を始めとする広報媒体への情報提供、資料を基にして番組を紹介する記事やメルマガ用の記事を作成する、などだ。これまで経験したことのない仕事は難しいと感じることも多々あったが、新鮮で面白かった。
時折視聴者からの面倒な電話に悩まされることはあったが、それを除けば、派遣社員だからと言って軽んじられたり、嫌がらをされたりするようなこともなく、私は至って平和にここでの仕事を楽しんでいた。
いつ何どき矢嶋に会ってしまうか分からないという危機感があったのは、初めのうちだけ。次第に彼に出くわす心配はなさそうだと思うようになっていた。外部スタッフも含めて社員数が多い会社だったし、私が仕事で動くのは所属する部署があるフロアだけだったからだ。
今日は局長の資料作りを手伝う予定だったな――。
その日、いつも通り出社した私はそんなことを考えながら、パソコンを立ち上げた。続いて、時間を確認しながら、視聴者対応用電話の留守録を解除する。すると早速、着信音が高らかに鳴り響いた。よそ行きの声で電話を受け、内容を聞き取る。その電話の主はこう言った。
―― 私が住んでるのは山沿いなんだけど、放送される天気予報といつも違うんだよね。あれはどこからの情報?
私では答えられない内容だと思い、一度電話を保留にした。隣合って座る編成デスクの土田にその内容を伝えて相談する。
土田もまた困ったように顔を歪めた。
「折り返しにして、報道に聞いてみてもらえる?」
私は頷き、電話の主に確認の上折り返すことを伝えた。そういうことなら折り返しはいらないとでも言ってくれるかと思ったが、確認した内容を教えてほしいという。
「それではいったん電話をお切りします」
私は相手の連絡先を聞き取ってから電話を切り、再び土田に訊ねた。
「誰に聞けばいいですか?」
「ニュース枠を担当してる長谷川さんだと分かると思う」
「長谷川さん?」
「報道制作局の報道デスクね」
どきりとした。
出社初日、局長の中沢からこの会社の内部組織を教えてもらったが、それによると報道制作局は報道部と制作部という二つの部署から成る。そしてアナウンサーは、制作部の中にあるアナウンス室に所属していた。
その部署に関わることはないと思っていたが、絶対ではないことに気づいたのはこの時だ。しかし、ピンポイントで電話をかけるだけだからと気を取り直す。
大丈夫と自分に言い聞かせながら、手元の内線一覧から探し出した「報道デスク・長谷川」宛に、緊張しつつ電話をかける。つながったと同時にその声は言った。
「はい。アナウンス室矢嶋です」
えっ、どうして――。
聞き間違えようのないその声に、私は息を飲んだ。そのせいで一秒か二秒、無言電話になってしまう。
電話の向こうの声が不審げに呼びかけてきた。
「もしもし?」
私が私であることを悟られないように、私は可能な限り声を変えた。すぐ隣の土田が不思議そうな顔で見ていたが、恥ずかしいと思っている場合ではない。
「あの、報道デスクの長谷川さんにかけたはずなのですが、今ご不在ですか?」
「長谷川さん?ちょっと待って下さいね」
矢嶋は私が誰であるか確認することなく、電話を保留にした。私に気づかなかったようだとひとまず安心したが、心臓はどきどき言っている。
「はい。長谷川ですけど」
本来すぐにつながるはずだった電話の相手が出た。それまで私の鼓動は止まらなかった。
本人には会わないかもしれない。しかし、矢嶋に電話をかけることがあるかもしれない。あるいは他の誰かにかけた電話を、彼が取ることもあるかもしれない――。
そこまでは考えていなかった自分の甘さを恨めしく思いつつ、その日以降の私は、視聴者電話の着信音が鳴る度にどきりとした。今回は報道制作局に関わる必要のない問い合わせでありますようにと祈りながら、毎回電話に手を伸ばしていた。
そんなことを繰り返していたある時、土田が私に苦笑を向けて言った。
「電話、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。答えにくいのは俺に回してもらって構わないんで」
「あ、ありがとうございます。というか。えぇと……」
私は頬の辺りを指先でかきながら言った。
「電話が恐いというよりは、報道制作局に問い合わせるような内容がかかってくるのが恐いと言いますか……」
理由を聞かれるかと思ったが、土田は納得したように深く頷いた。
「あぁ……。あそこはみんな、結構殺気立ってるから。問い合わせ一つするにしても、なんだか気を遣うんだよなぁ」
「そうなんですね」
「やっぱり現場だからなのかな。突然情報が飛び込んできたりするし、いつ行ってもあのフロアは賑やかなんだよね」
「へぇえ……」
土田とそんな会話をしていると、彼の斜め前の席に座る佐竹加奈子が私を呼んだ。彼女は広報デスク。真っすぐな黒髪で、ちょっと冷たい感じがする美しい人だ。最近は彼女の仕事を手伝うことも増えていた。
「はい。何か仕事でしょうか」
私は急いで彼女の傍まで立って行った。
「報道デスクの長谷川さんの所に行って、資料をもらってきてもらえないかしら。今週末の番組分って言えば、分かるはずなので。いつもこのくらいの時間に取りに行くことになっているんだけど、私、これからちょっと来客があって行かなきゃいけなくて。悪いんだけど、代わりに行ってきてほしいのよ」
申し訳なさそうな顔をして佐竹は言う。
報道デスクがいるのは報道制作局。関わることはないだろうと思っていた、いや、思い込んでいた、私にとっての鬼門の場所だ。席次表を見ると、報道、制作、アナウンス室すべてがひと続きのフロアの中にある。だから先日の電話も、矢嶋が出たとしても不思議ではなかったということだ。そしてつまりはそこに行けば、彼と出くわす確率が非常に高くなるということだった。
直接取りに行く以外の方法はないのだろうか――。
そう思った私はこう訊ねてみた。
「派遣の私が入って行っても、そこは大丈夫な部署なんでしょうか?」
私の問いかけに佐竹は目を瞬かせ、それからくすっと笑った。私が怖気づいていると思ったのか、励ますように言った。
「ここよりは相当賑やかだけど、怖い人はいないわよ。だから、そんなに身構えなくても大丈夫。それに」
佐竹は困ったように笑った。
「直接行かないと、資料があがってくるのが遅いことが多いのよね」
「なるほど……」
行くしかなさそうだ。私は諦めて笑顔を貼り付けた。
「では、今から行ってきます」
「えぇ、よろしくお願いします」
佐竹は私に笑いかけると、椅子の背もたれにかけていたジャケットを羽織り、筆記用具を手に廊下へと出て行った。
できるだけそこには近づきたくなかったけど、やっぱり無理なのね……。
私は小さくため息をついた。しかし、こんなお使いはきっと今回限りのことだろうと気を取り直す。そもそも矢嶋本人に用があって行くわけではない。それに、必ずしもそこに彼がいるとは限らない。
大丈夫、会うはずがない――。
私は土田たちに断りを入れて、一階のフロアに向かった。ぐずぐずしているくらいなら、早く資料とやらをもらってさっさと戻ってきた方がいいと、さらに歩を早めた。
私はどきどきしながら一階へと向かう階段を降り、さらに廊下を進んで、報道部のある部屋の前までやってきた。
土田から「殺気立っている」と聞いていたせいで、緊張する。開いていたドアの隙間からそっと中の様子をうかがってみると、ざわめきの中に殺気だった空気も確かに感じられる。早く行かなければと思うのに、足を踏み入れるのを躊躇する。
前もって確かめてきた席次表を頭の中に思い浮かべながら、私は目的の席を目指して歩いて行った。そこに座る後ろ姿に、勢いに任せて元気よく声をかけた。
「長谷川さん、お疲れ様です」
彼は前かがみになってパソコンに向かっていたが、私の声に気怠げな様子で振り返った。
「誰?」
「電話ではお話ししたことがあるのですが、お会いするのは初めてでして。編成広報局の川口と言います。広報デスクの佐竹さんから、今週末分の番組資料を受け取ってくるようにと言われて来ました。もう、できあがっているはずだから、と」
「あぁ、週末のね。ていうか、電話って……」
長谷川は記憶を掘り起こすかのように、私をじろじろと眺めまわしてから腕を組んだ。
「この前、天気予報のデータソースのことで話した時の人?そう言えば、佐竹から聞いてたな。年明けから派遣さんが入るんだって。で、資料だっけ?あともう少しでできるんだ。悪いんだけど、ちょっとだけ待ってて」
「分かりました」
私は頷き、彼の席から少し下がった壁際に立った。待つ間、そこからフロア全体を眺める。私がいるフロアとは違った雰囲気だ。
部署によって違うものなのね――。
そんな感想を抱きながら目の前の光景をぼんやりと眺めていると、奥の方の扉が開いた。そこから現れた長身の男性の姿が目に入り、はっとする。矢嶋だった。
こんなにたくさんの人がいる中で、私に気づくことはないだろうと思ったが、念のために近くにあった観葉植物の葉の影に隠れる。
「派遣さん、お待たせ。できたよ。ん?なんでそんな所にいるんだ?」
「あ、いえ。別に。あはは……」
私は笑ってごまかし、長谷川が差し出した資料に手を伸ばした。
用事は終わった。もう戻ろう。だってほら。先輩はまだ私には気づいていない――。
「資料、ありがとうございました」
「どういたしまして」
よし、今のうちに――。
頭を下げて、そそくさと長谷川の前から立ち去ろうとした。ところが。
「矢嶋!編集作業は終わったのか?」
私がまだそこにいるというタイミングで、長谷川が矢嶋に向かって大声で話しかけたのだ。
まずい、と思ったのと、矢嶋がこちらを向いたのは同時だった。
明らかに私を認めた彼の目は大きく見開かれていた。
お前がどうしてここにいるんだ――?
彼の顔には確実にそう書かれていた。
「あのっ、長谷川さん。私はこれで失礼します」
「ご苦労様」
私は長谷川にぺこりと頭を下げて、くるりと身をひるがえた。足早にその部屋を出て二階に向かう階段を一段飛ばしに昇りながら、矢嶋の顔を思い出す。だいぶ驚いた顔をしていた。
この遭遇によって、今後も何かの拍子に、社内で彼に会うことが絶対にないとは言い切れなくなった。それならば、ここはもう諦めて、挨拶の一つもしておいた方がいいのかもしれない。そうすれば、今後は逃げ隠れする必要はなくなるはずだ。そもそも落ち着いてよく考えてみれば、職場という公の場所で、多忙な彼が、いちいち私に絡んでくることなどないのではないか。
もしも今度また、偶然にも顔を合わせることがあったらと私は考える。その時は、彼に付け入る隙を与えないほど堂々とした態度で挨拶しようと心に決めた。